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* 2010年(日本リーグ5年目)
* 2010年(日本リーグ5年目)
::年までは[[乾絵美]]と捕手のポジションを守っていたが、5年目からはメインで捕手を任されることとなった。[[日本女子ソフトボールリーグ|日本リーグ]]では[[トヨタレッドテリアーズ|トヨタ自動車]]が世界のエースである[[モニカ・アボット]]を中心とする投手力とパワーアップした打線で優勝を決め、峰所属する[[ビックカメラ高崎ビークイーン|ルネサスエレクトロニクス高崎]]は優勝を逃した。[[全日本総合女子ソフトボール選手権大会|全日本総合選手権]]においても[[ホンダリヴェルタ|ホンダ]]のステシー・ネルソンに押さえ込まれ、チームは決勝を前に敗退してしまう。雨で8チーム同時優勝となった[[国民体育大会ソフトボール競技|国体]]を除いてはタイトルを取ることができなかった5年目のシーズンであった。峰個人としては[[日本女子ソフトボールリーグ|日本リーグ]]前半戦参戦→[[第12回世界女子ソフトボール選手権|世界選手権]]出場→USカップ出場→[[全日本総合女子ソフトボール選手権大会|全日本総合選手権]]出場→[[国民体育大会ソフトボール競技|国体]]出場→[[日本女子ソフトボールリーグ|日本リーグ]]後半戦出場→[[2010年アジア競技大会におけるソフトボール競技|アジア大会]]出場と超多忙なシーズンであった。USカップではホームプレート上での接触プレーで脳震盪を起こし途中退場したり、リーグ戦では打者の打球が当たり途中交代、決勝トーナメントでは打者のバットが喉に当たるなど、捕手であるが故の事故に遭遇した1年であった。様々なトラブルに見舞われた2010年シーズンであったが、11月の[[広州市|広州]][[2010年アジア競技大会におけるソフトボール競技|アジア大会]]では金メダルを獲得し([[アジア競技大会ソフトボール競技|アジア大会]]3連覇を達成)最後の最後に良い形で1年を締めくくった
::年までは[[乾絵美]]と捕手のポジションを守っていたが、5年目からはメインで捕手を任されることとなった。[[日本女子ソフトボールリーグ|日本リーグ]]では[[トヨタレッドテリアーズ|トヨタ自動車]]が世界のエースである[[モニカ・アボット]]を中心とする投手力とパワーアップした打線で優勝を決め、峰所属する[[ビックカメラ高崎ビークイーン|ルネサスエレクトロニクス高崎]]は優勝を逃した。[[全日本総合女子ソフトボール選手権大会|全日本総合選手権]]においても[[ホンダリヴェルタ|ホンダ]]の[[ステシー・ネルソン]]え込まれ、チームは決勝を前に敗退してしまう。雨で8チーム同時優勝となった[[国民体育大会ソフトボール競技|国体]]を除いてはタイトルを取ることができなかった。峰個人としては[[日本女子ソフトボールリーグ|日本リーグ]]前半戦参戦→[[第12回世界女子ソフトボール選手権|世界選手権]]出場→[[USAソフトボール・インターナショナルカップ|USAワールドカップ]]出場→[[全日本総合女子ソフトボール選手権大会|全日本総合選手権]]出場→[[国民体育大会ソフトボール競技|国体]]出場→[[日本女子ソフトボールリーグ|日本リーグ]]後半戦出場→[[2010年アジア競技大会におけるソフトボール競技|アジア大会]]出場と超多忙なシーズンであった。[[USAソフトボール・インターナショナルカップ|USAワールドカップ]]ではホームプレート上での接触プレーで脳震盪を起こし途中退場したり、リーグ戦では打者の打球が当たり途中交代、決勝トーナメントでは打者のバットが喉に当たるなど、捕手であるが故の事故に遭遇した1年であった。様々なトラブルに見舞われた2010年シーズンであったが、11月の[[広州市|広州]][[2010年アジア競技大会におけるソフトボール競技|アジア大会]]では金メダルを獲得し([[アジア競技大会ソフトボール競技|アジア大会]]3連覇を達成)。


* 2011年(日本リーグ6年目)
* 2011年(日本リーグ6年目)
::6年目のリーグ開幕当初は、積極的なバッティングが影を潜めていたが、第2節の岐阜大会からは好球必打に加え、チャンスに強い本来のバッティングが戻ってきた。前半戦(大阪大会)を終わった時点でヒット9本を打ち、うち7本がタイムリーヒットという驚異的な結果が出ている。7月からは[[ソフトボール女子日本代表|日本代表]]選手としてカナダカップ、[[USAソフトボール・インターナショナルカップ|USAワールドカップ]]に出場。今まで国際大会での打撃は良いところがなかったが、カナダカップでようやく本領を発揮した。打率.429を打ち、勝負強いバッティングで[[ソフトボール女子日本代表|日本]]のカナダカップ優勝に貢献した。[[ソフトボール女子日本代表|日本代表]]メンバー若手中心に変わってきたが、ジュニアチームでキャプテンを務めた彼女はキャリアのある選手と若手選手の繋ぐ役割も求められてきている。チーム成績は[[全日本総合女子ソフトボール選手権大会|全日本総合選手権]]優勝、[[日本女子ソフトボールリーグ|日本リーグ]]準優勝。
::開幕当初は、積極的なバッティングが影を潜めていたが、第2節の岐阜大会からは好球必打に加え、チャンスに強い本来のバッティングが戻ってきた。前半戦(大阪大会)を終わった時点でヒット9本を打ち、うち7本がタイムリーヒットという驚異的な結果を残した。7月からは[[ソフトボール女子日本代表|日本代表]]選手としてカナダカップ、[[USAソフトボール・インターナショナルカップ|USAワールドカップ]]に出場。今まで国際大会での打撃は良いところがなかったが、カナダカップでようやく本領を発揮した。打率.429を記録し、勝負強いバッティングで[[ソフトボール女子日本代表|日本]]のカナダカップ優勝に貢献した。[[ソフトボール女子日本代表|日本代表]]メンバー若手中心に変わってきたが、ジュニアチームでキャプテンを務めたはキャリアのある選手と若手選手の繋ぐ役割も求められてきている。チーム成績は[[全日本総合女子ソフトボール選手権大会|全日本総合選手権]]優勝、[[日本女子ソフトボールリーグ|日本リーグ]]準優勝。


* 2012年(日本リーグ7年目)
* 2012年(日本リーグ7年目)
::所属チームでは3番・4番の中軸を任されることが多かった。[[カナダ]]での[[第13回世界女子ソフトボール選手権|世界選手権]]では[[ソフトボール女子日本代表|日本]]に42年ぶりの優勝をもたらした。チームは[[国民体育大会ソフトボール競技|国体]]と[[全日本総合女子ソフトボール選手権大会|全日本総合選手権]]で優勝を果たしたが、[[日本女子ソフトボールリーグ|日本リーグ]]では決勝トーナメントで[[トヨタレッドテリアーズ|トヨタ自動車]]に1点差で敗れ、3冠達成はならなかった。
::3番・4番の中軸を任されることが多かった。[[カナダ]]での[[第13回世界女子ソフトボール選手権|世界選手権]]では[[ソフトボール女子日本代表|日本]]に42年ぶりの優勝をもたらした。チームは[[国民体育大会ソフトボール競技|国体]]と[[全日本総合女子ソフトボール選手権大会|全日本総合選手権]]で優勝を果たしたが、[[日本女子ソフトボールリーグ|日本リーグ]]では決勝トーナメントで[[トヨタレッドテリアーズ|トヨタ自動車]]に1点差で敗れ、3冠達成はならなかった。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2024年5月15日 (水) 02:16時点における版

峰 幸代
Yukiyo Mine
引退
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県福岡市
生年月日 (1988-01-26) 1988年1月26日(36歳)
身長・体重 165cm
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
選手経歴
国際大会
代表チーム  日本
五輪 20082021
世選/W杯 201020122014
アジア大会 20102014


峰 幸代(みね ゆきよ、1988年1月26日 - )は、福岡県福岡市出身[1]の女子ソフトボール選手(捕手)。元ソフトボール日本代表。2008年北京オリンピック金メダリスト、2021年開催の東京オリンピック金メダリスト。

経歴

千葉県木更津総合高等学校を卒業。2年生の2004年には選抜インターハイ国体の3冠を達成。2006年に日立&ルネサス高崎[注 1]に入団。同年、日本リーグの新人賞・ベストナイン賞を受賞。

人物・エピソード

小学校では野球をしており、横浜市立瀬谷中学校1年生(12歳)の時にソフトボールを始めた。本職はキャッチャーであるがドッジボールのキャッチは苦手である[3]

2022年1月19日、東京オリンピック日本代表として金メダルを獲得した功績をたたえ、神奈川県横浜市瀬谷区相鉄瀬谷駅北口にあるスマイルストリート瀬谷前に記念のゴールドポスト(第50号)が設置された(ゴールドポストプロジェクト[4])。

詳細情報

[5]

日本リーグ個人表彰

  • 2006年 - ベストナイン賞(捕手)、新人賞(野手)
  • 2008年 - ベストナイン賞(指名選手)
  • 2011年 - ベストナイン賞(捕手)

年度別成績

  • 2006年 - 打率.394、本塁打0、打点11
  • 2007年 - 打率.186、本塁打0、打点4
  • 2008年 - 打率.413、本塁打0、打点8(打撃成績5位)
  • 2009年 - 打率.328、本塁打1、打点11
  • 2010年 - 打率.288、本塁打0、打点6
  • 2011年 - 打率.382、本塁打1、打点13(打撃成績9位)
  • 2012年 - 打率.245、本塁打1、打点9

補足

チームの4番打者を任され、打率も.394を残すなど、安定したバッティングを見せる。
  • 2007年(日本リーグ2年目)
打率が1割台と低迷。
  • 2008年(日本リーグ3年目)
打率.413を残し、右打者ながら4割台の高打率を記録。
  • 2009年(日本リーグ4年目)
打撃面では開幕節でリーグ初本塁打、全日本総合選手権で2本塁打、国体で2本塁打を放つなど、昨年以上に長打力がついた。チーム成績は、2年連続で3冠(日本リーグ全日本総合選手権国体)を達成した。
  • 2010年(日本リーグ5年目)
前年までは乾絵美と捕手のポジションを守っていたが、5年目からはメインで捕手を任されることとなった。日本リーグではトヨタ自動車が世界のエースであるモニカ・アボットを中心とする投手力とパワーアップした打線で優勝を決め、峰が所属するルネサスエレクトロニクス高崎は優勝を逃した。全日本総合選手権においてもホンダステイシー・ネルソンに抑え込まれ、チームは決勝を前に敗退してしまう。雨で8チーム同時優勝となった国体を除いてはタイトルを取ることができなかった。峰個人としては日本リーグ前半戦参戦→世界選手権出場→USAワールドカップ出場→全日本総合選手権出場→国体出場→日本リーグ後半戦出場→アジア大会出場と超多忙なシーズンであった。USAワールドカップではホームプレート上での接触プレーで脳震盪を起こし途中退場したり、リーグ戦では打者の打球が当たり途中交代、決勝トーナメントでは打者のバットが喉に当たるなど、捕手であるが故の事故に遭遇した1年であった。様々なトラブルに見舞われた2010年シーズンであったが、11月の広州アジア大会では金メダルを獲得した(アジア大会3連覇を達成)。
  • 2011年(日本リーグ6年目)
開幕当初は、積極的なバッティングが影を潜めていたが、第2節の岐阜大会からは好球必打に加え、チャンスに強い本来のバッティングが戻ってきた。前半戦(大阪大会)を終わった時点でヒット9本を打ち、うち7本がタイムリーヒットという驚異的な結果を残した。7月からは日本代表選手としてカナダカップ、USAワールドカップに出場。今まで国際大会での打撃は良いところがなかったが、カナダカップでようやく本領を発揮した。打率.429を記録し、勝負強いバッティングで日本のカナダカップ優勝に貢献した。日本代表メンバーは若手中心に変わってきたが、ジュニアチームでキャプテンを務めた峰はキャリアのある選手と若手選手の繋ぐ役割も求められてきている。チーム成績は全日本総合選手権優勝、日本リーグ準優勝。
  • 2012年(日本リーグ7年目)
3番・4番の中軸を任されることが多かった。カナダでの世界選手権では日本に42年ぶりの優勝をもたらした。チームは国体全日本総合選手権で優勝を果たしたが、日本リーグでは決勝トーナメントでトヨタ自動車に1点差で敗れ、3冠達成はならなかった。

脚注

注釈

  1. ^ a b 2007年からルネサス高崎。

出典

  1. ^ 峰幸代捕手が現役引退「未練はない」 ソフトボール五輪2大会で金”. 西日本新聞me. 2022年11月25日閲覧。
  2. ^ 上野の“不動の女房役”峰 今季限りで引退…海外留学へ”. スポーツニッポン. 2015年5月17日閲覧。
  3. ^ Wow! Collection SPRING/SUMMER 2021 JDリーグ
  4. ^ ゴールドポストプロジェクト”. 首相官邸 オリンピック・パラリンピックレガシー推進室. 2022年6月9日閲覧。
  5. ^ 峰 幸代 JSL

外部リンク