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{{基礎情報 君主の正配
{{基礎情報 君主の正配
|人名=アレクサンドラ・オブ・デンマーク
| 人名 = アレクサンドラ・オブ・デンマーク
|各国語表記={{lang|en|Alexandra of Denmark}}
| 各国語表記 = {{lang|en|Alexandra of Denmark}}
|正配称号=[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]王妃<br>[[インド帝国|インド]]皇后
| 正配称号 = [[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]][[イギリス王妃・王配一覧|王妃]]<br />[[インド帝国|インド]][[インド皇帝|皇后]]
|画像=Alexandra of Denmark02.jpg
| 画像 = Alexandra of Denmark02.jpg
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| 画像サイズ = 200px
|画像説明=アレクサンドラ(1889年頃
| 画像説明 = 1889年頃撮影
|在位=[[1901年]][[1月22日]] - [[1910年]][[5月6日]]
| 在位 = [[1901年]][[1月22日]] - [[1910年]][[5月6日]]
|戴冠日=[[1902年]][[8月9日]]
| 戴冠日 = [[1902年]][[8月9日]]
| 全名 = {{Collapsible list|title=一覧参照|[[英語|英]]:{{lang|en|Alexandra Caroline Marie Charlotte Louise Julia of Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg}}<br/>アレクサンドラ・キャロライン・マリー・シャーロット・ルイーズ・ジュリア・オブ・シュレスヴィグ=ホルスタイン=ゾンダーバーク=グリュックスバーク<br/>[[デンマーク語|丁]]:{{lang|da|Alexandra Caroline Marie Charlotte Louise Julia af Slesvig-Holsten-Sønderborg-lyksborg}}<br/>アレクサンドラ・カロリーネ・マリー・シャロデ・ルイーセ・ユリア・ア・スレスヴィ=ホルステン=スナボー=リュクスボー}}
|別称号=
| 出生日 = [[1844年]][[121日]]
|全名={{lang|en|Alexandra Carolina Marie Charlotte Louise Julia}}<br>アレクサンドラ・キャロライン・マリー・シャーロット・ルイーズ・ジュリア
| 生地 = {{DEN}}、[[コペンハーゲン]]
|別称=
|出生日={{年月日と年齢|1844|12|1|no}}
| 死亡 = {{死亡年月日と年齢|1844|12|1|1925|11|20}}
| 没地 = {{GBR3}}<br>{{ENG}}、[[ノーフォーク]]、[[サンドリンガム・ハウス]]
|生地={{DEN}}、[[コペンハーゲン]]
| 埋葬日 = 1925年[[11月28日]]
|死亡日={{死亡年月日と没年齢|1844|12|1|1925|11|20}}
|地={{GBR3}}<br>{{ENG}}、[[フォ]]、[[:en:Sandringham House|サンドリンガム・ハウス]]
| 埋葬 = {{GBR3}}<br>{{ENG}}、[[ウィンザ (イングランド)|ウィンザー]]、[[w:St George's Chapel at Windsor Castle|聖ジョージ礼拝堂]]
|埋葬日=[[1925年]][[1128日]]
| 結婚 = [[1863年]][[310日]]
| 配偶者1 = [[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]
|埋葬地={{GBR3}}<br>{{ENG}}、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]、[[w:St George's Chapel at Windsor Castle|聖ジョージ礼拝堂]]
| 子女 = {{Collapsible list|title=一覧参照|[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]]<br />[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]<br />[[ルイーズ (ファイフ公爵夫人)|ルイーズ]]<br />[[ヴィクトリア・アレクサンドラ (イギリス王女)|ヴィクトリア]]<br />[[モード (ノルウェー王妃)|モード]]<br />アレクサンダー・ジョン}}
|結婚=[[1863年]][[310日]]
| 家名 = [[グリュックスブルク家|リュクスボー家]](グリュックスブルク家)
|配偶者1=[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]
| 父親 = [[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]
|子女={{Collapsible list|title=一覧参照|[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|クラレンス公アルバート・ヴィクター]]<br />[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]<br />[[ルイーズ (ファイフ公爵夫人)|ファイフ公爵夫人ルイーズ ]]<br />[[ヴィクトリア・アレクサンドラ (イギリス王女)|ヴィクトリア・アレクサンドラ]]<br />[[モード (ノルウェー王妃)|ノルウェー王妃モード]]<br />アレクサンダー・ジョン}}
| 母親 = [[ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセル|ルイーセ・ア・ヘッセン=カッセル]]
|氏族=
|家名=[[グリュックスブルク家|リュクスボー家]](グリュックスブルク家)
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'''アレクサンドラ・オブ・デンマーク'''({{lang-en|Alexandra of Denmark}},{{lang-da|Alexandra af Denmark}},[[1844年]][[12月1日]] - [[1925年]][[11月20日]])は[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]][[イギリスの君主|国王]][[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]の妃でイギリス[[王妃]]、[[インド帝国|インド]]皇后。


'''アレクサンドラ・オブ・デンマーク'''({{lang-en|Alexandra of Denmark}},{{lang-da|Alexandra af Denmark}}, [[1844年]][[12月1日]] - [[1925年]][[11月20日]])は[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]][[イギリスの君主|国王]][[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]の妃でイギリス[[イギリス王妃・王配一覧|王妃]]、[[インド帝国|インド]]皇后。
[[グリュックスブルク家|リュクスボー朝]]初代[[デンマーク]][[デンマーク君主一覧|国王]][[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の長女。長兄にデンマーク王[[フレゼリク8世 (デンマーク王)|フレゼリク8世]]、弟に[[ギリシャ王国|ギリシャ]]王[[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]]、妹に[[ロシア帝国|ロシア]]皇帝[[アレクサンドル3世]]の皇后[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア]]と[[ハノーファー王国]]の元王太子妃[[テューラ・ア・ダンマーク (1853-1933)|テューラ]]。

[[グリュックスブルク家|リュクスボー朝]]初代[[デンマーク]][[デンマーク君主一覧|国王]][[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の長女。長兄にデンマーク王[[フレゼリク8世 (デンマーク王)|フレゼリク8世]]、弟に[[ギリシャ王国|ギリシャ]][[ギリシャ国の一覧|国王]][[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]]、妹に[[ロシア帝国|ロシア]][[ロシア皇帝|皇帝]][[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]の皇后[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア]]と[[ハノーファー王国]]の元王太子妃[[テューラ・ア・ダンマーク (1853-1933)|テューラ]]。


[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]と[[モード (ノルウェー王妃)|ノルウェー王妃モード]]の母。[[女王]][[エリザベス2世]]の[[曾祖母]]。
[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]と[[モード (ノルウェー王妃)|ノルウェー王妃モード]]の母。イギリス[[女王]][[エリザベス2世]]と[[ノルウェー]][[ノルウェー君主一覧|国王]][[ハーラル5世 (ノルウェー王)|ハーラル5世]]の[[曾祖母]]。


[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]と結婚し、3男3女の母となる。なお児全員年子である。夫エドワードの不倫と冷え切った夫婦関係や姑ヴィクトリア女王との愛憎表裏一体する複雑な確執などで心身ともに疲れ果てたが、王太子妃時代には戦争で亡くなった遺族の経済援助のためイギリス陸海空軍人家族協会を設立したり、王妃時代はイギリス陸軍看護施設を設立したりと功績を残した。
[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]と結婚し、3男3女の母となる。なお6児全員年子である。夫エドワードの不倫と冷え切った夫婦関係や姑ヴィクトリア女王との愛憎表裏一体する複雑な確執などで心身ともに疲れ果てたが、王太子妃時代には戦争で亡くなった遺族の経済援助のためイギリス陸海空軍人家族協会を設立したり、王妃時代はイギリス陸軍看護施設を設立したりと功績を残した。


== フルネーム ==
== フルネーム ==
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== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== デンマーク王女 ===
=== デンマーク王女 ===
[[1844年]][[12月1日]]、[[デンマーク]]の首都[[コペンハーゲン]]で、後にデンマーク王[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]となるグリュックスブルク公子クリスチャンとその妃[[ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセル|ルイー]]の長女として誕生した。アレクサンドラは家族からは「'''アリックス'''」({{lang|da|Alix}})という愛称で呼ばれた。妹のダウマー(後のロシア皇后[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ]])とは歳も近く、同じ部屋で育ったということもあり、大の仲良しだった。父が[[1852年]]の王位継承法で嗣子のいないデンマーク国王[[フレデリク7世 (デンマーク王)|フレゼリク7世]]の継承者に選ばれるまでは[[シュレースヴィヒ公国|シュレースヴィヒ]]・[[ホルシュタイン公国|ホルシュタイン]]・[[ゾンダーブルク]]・[[グリュックスブルク]]公であったが、財力がなかったためにデンマーク王室から無料で借りたコペンハーゲン市内の小さな家で暮らしていた。家庭教師を雇う金銭的余裕もなかったためにアレクサンドラは妹弟ともに両親から教育を受け、[[英語]]はイギリス人看護婦とコペンハーゲンのイギリス人牧師から習った。ダウマーとともに美貌の王女と呼ばれ、2人が結婚年齢に達するとヨーロッパの諸王室から縁談が舞い込んだ。
[[1844年]][[12月1日]]、[[デンマーク]]の首都[[コペンハーゲン]]で、後にデンマーク王[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]となるグリュックスブルク公子クリスチャンとその妃[[ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセル|ルイー]]の長女として誕生した。アレクサンドラは家族からは「'''アリックス'''」({{lang|da|Alix}})という愛称で呼ばれた。妹のダウマー(後のロシア皇后[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ]])とは歳も近く、同じ部屋で育ったということもあり、大の仲良しだった。父が[[1852年]]の王位継承法で嗣子のいないデンマーク国王[[フレデリク7世 (デンマーク王)|フレゼリク7世]]の継承者に選ばれるまでは[[シュレースヴィヒ公国|シュレースヴィヒ]]・[[ホルシュタイン公国|ホルシュタイン]]・[[ゾンダーブルク]]・[[グリュックスブルク]]公であったが、財力がなかったためにデンマーク王室から無料で借りたコペンハーゲン市内の小さな家で暮らしていた。家庭教師を雇う金銭的余裕もなかったためにアレクサンドラは妹弟ともに両親から教育を受け、[[英語]]はイギリス人看護婦とコペンハーゲンのイギリス人牧師から習った。ダウマーとともに美貌の王女と呼ばれ、2人が結婚年齢に達するとヨーロッパの諸王室から縁談が舞い込んだ。


そんな中、王位を継承して間もない父クリスチャン9世にイギリス政府からアリックス王女と[[プリンス・オブ・ウェールズ|イギリス王太子]][[エドワード7世 (イギリス王)|アルバート・エドワード]]との縁談が持ちかけられた。イギリス王室との縁談は、経済的窮地にあるデンマーク王室にとって願ってもない話だった。しかし、当時デンマークは[[プロイセン王国|プロイセン]]と[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題|シュレースヴィヒ=ホルシュタインを巡って争っており]]、親普派である[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]はデンマーク王女を王太子妃に迎えることに消極的だった。また、イギリス王室は[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]以来[[ドイツ]][[領邦]]とのつながりが深く、ヴィクトリア女王の母[[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド|ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト]]と夫[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公]]はドイツ出身、また長女[[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア]]をプロイセン王太子に、次女[[アリス (ヘッセン大公妃)|アリス]]をヘッセン大公子にそれぞれ嫁がせていた。
そんな中、王位を継承して間もない父クリスチャン9世にイギリス政府からアリックス王女と[[プリンス・オブ・ウェールズ|イギリス王太子]][[エドワード7世 (イギリス王)|アルバート・エドワード]]との縁談が持ちかけられた。[[イギリス王室]]との縁談は、経済的窮地にあるデンマーク王室にとって願ってもない話だった。しかし、当時デンマークは[[プロイセン王国|プロイセン]]と[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題|シュレースヴィヒ=ホルシュタインを巡って争っており]]、親普派である[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]はデンマーク王女を王太子妃に迎えることに消極的だった。また、イギリス王室は[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]以来[[ドイツ]][[領邦]]とのつながりが深く、ヴィクトリア女王の母[[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド|ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト]]と夫[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公]]はドイツ出身、また長女[[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア]]をプロイセン王太子に、次女[[アリス (ヘッセン大公妃)|アリス]]をヘッセン大公子にそれぞれ嫁がせていた。


しかし、アルバート・エドワードの素行の悪さを直したかった女王は、美貌の妃を与えて大人しくさせることを考えた。そこで重い腰を上げ、美貌の誉れ高いアリックス王女と会うことを決めた。アリックスとの対面場所はヴィクトリア女王の叔父[[ベルギー]]国王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]の住むベルギー王宮に決めた。レオポルド1世は失態のないようベルギー王宮の女官たちにあれこれ見合いの準備を細かく指示した。この縁組に消極的だったヴィクトリア女王とアルバート・エドワードは、対面したアリックスのその美貌に惚れ込み、共に王太子妃に望んだためこの縁談は成立した。イギリス王太子と婚約したアリックスは結婚のためデンマークからイギリスに旅立った。コペンハーゲンから発つ際、大の仲良しだった妹ダウマーは涙して見送った。
しかし、アルバート・エドワードの素行の悪さを直したかった女王は、美貌の妃を与えて大人しくさせることを考えた。そこで重い腰を上げ、美貌の誉れ高いアリックス王女と会うことを決めた。アリックスとの対面場所はヴィクトリア女王の叔父[[ベルギー]][[ベルギー国王の一覧|国王]][[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]の住むベルギー王宮に決めた。レオポルド1世は失態のないようベルギー王宮の女官たちにあれこれ見合いの準備を細かく指示した。この縁組に消極的だったヴィクトリア女王とアルバート・エドワードは、対面したアリックスのその美貌に惚れ込み、共に王太子妃に望んだためこの縁談は成立した。イギリス王太子と婚約したアリックスは結婚のためデンマークからイギリスに旅立った。コペンハーゲンから発つ際、大の仲良しだった妹ダウマーは涙して見送った。


=== プリンセス・オブ・ウェールズ ===
=== プリンセス・オブ・ウェールズ ===
[[File:Princess Alexandra of Denmark, later Princess of Wales.jpg|thumb|left|アレクサンドラ王妃(1860撮影)]]
[[File:Princess Alexandra of Denmark, later Princess of Wales.jpg|thumb|left|アレクサンドラ王太子(1864年撮影)]]
[[File:ALexandra of Denmark Princess of Wales.jpg|thumb|left|アレクサンドラ王妃([[フランツ・ヴィンターハルター|ヴィンターハルター]]画)]]
[[File:ALexandra of Denmark Princess of Wales.jpg|thumb|left|アレクサンドラ王太子妃([[フランツ・ヴィンターハルター|ヴィンターハルター]]画)]]
[[1863年]][[3月10日]]、王太子アルバート・エドワードと結婚。2人の間には3男3女が生まれた。しかし結婚後も王太子の奔放な女性遍歴は絶えることはなかった。夫の不倫と自分への愛情の無さを見て見ぬふりを通し、その屈辱を子育てで耐え忍んでいたアリックスは、息子たちに「お父さまの様に愚かな人間になってはなりませんよ」と言い聞かせていた。夫の漁色と愛情の無い冷え切った夫婦生活で悩むアリックスは、妹ダウマー夫妻の仲の良さを羨ましがったという。
[[1863年]][[3月10日]]、王太子アルバート・エドワードと結婚。[[プリンセス・オブ・ウェールズ]]となる。2人の間には3男3女が生まれたが、結婚後も王太子の奔放な女性遍歴は絶えることはなかった。夫の不倫と自分への愛情の無さを見て見ぬふりを通し、その屈辱を子育てで耐え忍んでいたアリックスは、息子たちに「お父さまの様に愚かな人間になってはなりませんよ」と言い聞かせていた。夫の漁色と愛情の無い冷え切った夫婦生活で悩むアリックスは、妹ダウマー夫妻の仲の良さを羨ましがったという。


アリックスは、夫の愛人と言われた女性には蔑称をつけて呼んでいた。また、夫と関係を噂されている女性が連れ立って歩いているのを見かけると、夫をその女性共々「豚」に例えた事もある。子育てに専念する事で夫の不倫と冷え切った夫婦関係の屈辱を耐えていたアリックスも、子供が親元から離れていくと、一人で屈辱に耐える日々が始まる。そんなアリックスを打ちのめしたのが、長男[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]]の死であった。未来の国王として育ててきたアリックスにとって、アルバート・ヴィクターが28歳の若さで病死したことは大きな痛手で、一時は王室行事に出席しない日々が続いた程だった。
アリックスは、夫の愛人と言われた女性には蔑称をつけて呼んでいた。また、夫と関係を噂されている女性が連れ立って歩いているのを見かけると、夫をその女性共々「豚」に例えた事もある。子育てに専念する事で夫の不倫と冷え切った夫婦関係の屈辱を耐えていたアリックスも、子供が親元から離れていくと、一人で屈辱に耐える日々が始まる。そんなアリックスを打ちのめしたのが、長男[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]]の死であった。未来の国王として育ててきたアリックスにとって、アルバート・ヴィクターが28歳の若さで病死したことは大きな痛手で、一時は王室行事に出席しない日々が続いた程だった。
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アリックスの義理の妹でヴィクトリア女王の四女[[ルイーズ (アーガイル公爵夫人)|ルイーズ]]が年頃になると、ヴィクトリア女王は娘のために良い嫁ぎ先を探し始めた。アリックスは「自分の兄であるデンマーク王太子フレゼリク(後の[[フレゼリク8世 (デンマーク王)|フレゼリク8世]])はどうか」と打診した。が、女王は[[第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]で、長女ヴィクトリアのいるプロイセンと義理の娘アリックスの故国デンマークとが争った事態に心を痛めていたため、この縁組に反対した。結局ルイーズは[[スコットランド貴族]]の[[アーガイル公爵]]の後継者の[[ジョン・キャンベル (第9代アーガイル公爵)|ローン侯爵ジョン]]と結婚した。これにはアリックスの夫アルバート・エドワード王太子が難色を示した(当時、一国の君主の娘が臣下に降嫁することは問題外であった)。
アリックスの義理の妹でヴィクトリア女王の四女[[ルイーズ (アーガイル公爵夫人)|ルイーズ]]が年頃になると、ヴィクトリア女王は娘のために良い嫁ぎ先を探し始めた。アリックスは「自分の兄であるデンマーク王太子フレゼリク(後の[[フレゼリク8世 (デンマーク王)|フレゼリク8世]])はどうか」と打診した。が、女王は[[第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]で、長女ヴィクトリアのいるプロイセンと義理の娘アリックスの故国デンマークとが争った事態に心を痛めていたため、この縁組に反対した。結局ルイーズは[[スコットランド貴族]]の[[アーガイル公爵]]の後継者の[[ジョン・キャンベル (第9代アーガイル公爵)|ローン侯爵ジョン]]と結婚した。これにはアリックスの夫アルバート・エドワード王太子が難色を示した(当時、一国の君主の娘が臣下に降嫁することは問題外であった)。


アリックスは義弟の[[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|ザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレート]]の妃[[マリア・アレクサンドロヴナ (ザクセン=コーブルク=ゴータ公妃)|マリア]]とも仲が悪かった。彼女の父ロシア皇帝[[アレクサンドル2世]]は、娘マリアには“Her Imperial Highness”の称号を使わせつづけることを無理やり英国王室に承知させるなど、父娘で傲慢さが評判だった。1887年、ヴィクトリア女王在位50年式典での座席位置でどちらが上位に座るかが問題になるとマリアは「自身はロシア皇女であり、たかがデンマークの一王女にすぎないアリックスよりも立場は上」と発言。一方、アリックスは「ロシア皇女といっても前皇帝の娘、今のロシア皇帝の妃は自身の妹であり、たかがドイツの一公国の妃にすぎないマリアが上位なのはおかしい」と主張。しかし結局、マリアが上位に座ることとなり、アリックスは屈辱を甘受せざるを得なかった。
アリックスは義弟の[[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|ザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレート]]の妃[[マリア・アレクサンドロヴナ (ザクセン=コーブルク=ゴータ公妃)|マリア]]とも仲が悪かった。彼女の父ロシア皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]は、娘マリアには“{{lang|en|Her Imperial Highness}}”の称号を使わせつづけることを無理やり英国王室に承知させるなど、父娘で傲慢さが評判だった。1887年、ヴィクトリア女王在位50年式典での座席位置でどちらが上位に座るかが問題になるとマリアは「自身はロシア皇女であり、たかがデンマークの一王女にすぎないアリックスよりも立場は上」と発言。一方、アリックスは「ロシア皇女といっても前皇帝の娘、今のロシア皇帝の妃は自身の妹であり、たかがドイツの一公国の妃にすぎないマリアが上位なのはおかしい」と主張。しかし結局、マリアが上位に座ることとなり、アリックスは屈辱を甘受せざるを得なかった。


この当時は、ロシア皇后となった妹[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|ダウマー]]とは、毎年のようにパリで落ち合い、お揃いのドレスで社交界に現れたり、デンマークの実家で互いの家族と休暇を楽しんだり、一家で親交を深めた。父のクリスチャン9世亡き後はコペンハーゲンの北にダウマー一家と会うための別荘を共同で購入している。
この当時は、ロシア皇后となった妹[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|ダウマー]]とは、毎年のようにパリで落ち合い、お揃いのドレスで社交界に現れたり、デンマークの実家で互いの家族と休暇を楽しんだり、一家で親交を深めた。父のクリスチャン9世亡き後はコペンハーゲンの北にダウマー一家と会うための別荘を共同で購入している。


アリックスは、妹ダウマーの息子で甥である皇太子ニコライ(後の[[ニコライ2世]])とヘッセン大公女[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ]]の結婚を、ダウマーと皇帝アレクサンドル3世夫妻と共に反対した。アレクサンドラ大公女は、非社交的でヒステリックな癇癪を引き起こす事がたびたびあり、広大な領地をもつ[[ロマノフ朝|ロマノフ王朝]]の皇后として責務を果たせるのかどうかを疑っていた。また、アレクサンドラの生家のヘッセン大公家では、一族に次々と不吉な出来事が起きていたため、ヘッセン大公家の血を引くアレクサンドラがロシア帝室に嫁ぎ、ロマノフ家に不幸が及ぶのではないかと心配していた。
アリックスは、妹ダウマーの息子で甥である皇太子ニコライ(後の[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]])とヘッセン大公女[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ]]の結婚を、ダウマーと皇帝アレクサンドル3世夫妻と共に反対した。アレクサンドラ大公女は、非社交的でヒステリックな癇癪を引き起こす事がたびたびあり、広大な領地をもつ[[ロマノフ朝|ロマノフ王朝]]の皇后として責務を果たせるのかどうかを疑っていた。また、アレクサンドラの生家のヘッセン大公家では、一族に次々と不吉な出来事が起きていたため、ヘッセン大公家の血を引くアレクサンドラがロシア帝室に嫁ぎ、ロマノフ家に不幸が及ぶのではないかと心配していた。


そんなさなか、ダウマーの夫でアリックスの義弟アレクサンドル3世が病に倒れ、1894年に崩御した。アレクサンドル3世の葬儀参列のため、夫のアルバート・エドワードと共にロシアを訪問し、夫の崩御で悲しみに暮れるダウマーを励ました。また、ニコライ2世に、ダウマーと共に改めてアレクサンドラとの結婚に反対したが、アルバート・エドワード王太子とニコライ2世が取り決めて、結婚が成立した。最後までこの結婚に反対したアリックスとダウマーは祝うことができなかった。
そんなさなか、ダウマーの夫でアリックスの義弟アレクサンドル3世が病に倒れ、1894年に崩御した。アレクサンドル3世の葬儀参列のため、夫のアルバート・エドワードと共にロシアを訪問し、夫の崩御で悲しみに暮れるダウマーを励ました。また、ニコライ2世に、ダウマーと共に改めてアレクサンドラとの結婚に反対したが、アルバート・エドワード王太子とニコライ2世が取り決めて、結婚が成立した。最後までこの結婚に反対したアリックスとダウマーは祝うことができなかった。
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=== 子女たちの結婚 ===
=== 子女たちの結婚 ===
[[ファイル:Alexandra of Denmark and Victoria of UK.jpg|サムネイル|200px|ヴィクトリア王女とアリックス(左・1920年頃)]]
アリックスは子女たちの結婚に対し、姑ヴィクトリア女王や夫エドワード・アルバートが勧める縁談でも反対する事が多々あり、それが影響して破談となる事もあった。クラレンス公[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]]の妃候補にヘッセン大公女[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ]](後のロシア皇后アレクサンドラ)が浮上したが、アリックスが断反対し白紙に、次男ヨーク公[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ]]とザクセン=コーブルク=ゴータ公女[[マリア (ルーマニア王妃)|マリー]](後のルーマニア王妃)が恋愛関係にあり結婚に進展した際、ヴィクトリア女王や王室の面々が賛成しても反対し破談となるなど、また、次女[[ヴィクトリア・アレクサンドラ (イギリス王女)|ヴィクトリア・アレクサンドラ]]王女が生涯独身であったのも、アリックスが愛娘の健康に配慮し、結婚を思い留まらせたためとも言われており、ヴィクトリア女王や夫アルバート・エドワードの影に隠れがちだったアリックスも、王室内では発言力も有していたのである。
アリックスは子女たちの結婚に対し、姑ヴィクトリア女王や夫エドワード・アルバートが勧める縁談でも反対する事が多々あり、それが影響して破談となる事もあった。クラレンス公[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]]の妃候補にヘッセン大公女[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ]](後のロシア皇后アレクサンドラ)が浮上したが、アリックスが断反対し白紙に、次男ヨーク公[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ]]とザクセン=コーブルク=ゴータ公女[[マリア (ルーマニア王妃)|マリー]](後のルーマニア王妃)が恋愛関係にあり結婚に進展した際、ヴィクトリア女王や王室の面々が賛成しても反対し破談となるなど、また、次女[[ヴィクトリア・アレクサンドラ (イギリス王女)|ヴィクトリア・アレクサンドラ]]王女が生涯独身であったのも、アリックスが愛娘の健康に配慮し、結婚を思い留まらせたためとも言われており、ヴィクトリア女王や夫アルバート・エドワードの影に隠れがちだったアリックスも、王室内では発言力も有していたのである。


=== イギリス王妃 ===
=== イギリス王妃 ===
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[[Image:Alice Keppel00.jpg|thumb|left|150px|アリス・ケッペル]]
[[Image:Alice Keppel00.jpg|thumb|left|150px|アリス・ケッペル]]
[[File:Queen Alexandra in 1902.jpg|200px|left|thumb|王妃アレクサンドラ(1902年)]]
[[File:Queen Alexandra in 1902.jpg|200px|left|thumb|王妃アレクサンドラ(1902年)]]
1901年、ヴィクトリア女王の崩御により、アルバート・エドワードが[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]として即位し、アリックスは王妃となった。既に50歳を超えていたが、30代に見えたというほどの美貌を誇った。
1901年、ヴィクトリア女王の崩御により、アルバート・エドワードが[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]として即位し、アリックスは[[イギリス王妃・王配一覧|イギリス王妃]]となった。既に50歳を超えていたが、30代に見えたというほどの美貌を誇った。


「[[潔癖]]症で手に接吻を受けるのを嫌う」「約束の時間を守れない」といった悪評もあったが、ヴィクトリア女王の長く重苦しい治世の後に、アリックスの天性の明るさは、誰からも好感を持たれたという。
「[[潔癖]]症で手に接吻を受けるのを嫌う」「約束の時間を守れない」といった悪評もあったが、ヴィクトリア女王の長く重苦しい治世の後に、アリックスの天性の明るさは、誰からも好感を持たれたという。
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=== イギリス王太后 ===
=== イギリス王太后 ===
[[1917年]]に[[ロシア革命]]が勃発し、甥であるロシア皇帝[[ニコライ2世]]が退位してロマノフ王朝が打倒されると、アリックスは皇帝一家の安否を心配した。そんな中、ロシアで皇族・貴族の迫害が始まり、妹ダウマーら一部の皇族・貴族は[[クリミア半島]]の[[ヤルタ]]に幽閉された。妹が幽閉されている事を知ったアリックスは、一家の救出に奔走し、息子[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]も、戦艦[[マールバラ (戦艦)|マールバラ]]を差し向けて、皇太后マリア(ダウマー)と娘一家らをクリミアから[[黒海]]を経て救い出した。ロシア皇帝ニコライ世一家の銃殺を知らせる公式文書が届いた時、アリックスはジョージ5世とともに大きな衝撃を受けた。その後、クリミアから救出されたダウマーに再会したが、ジョージ世がニコライ世一家の亡命を拒んだのであり、実の息子や孫たちを殺された妹に言葉をかけられなかったと言う。
[[1917年]]に[[ロシア革命]]が勃発し、甥であるロシア皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]が退位してロマノフ王朝が打倒されると、アリックスは皇帝一家の安否を心配した。そんな中、ロシアで皇族・貴族の迫害が始まり、妹ダウマーら一部の皇族・貴族は[[クリミア半島]]の[[ヤルタ]]に幽閉された。妹が幽閉されている事を知ったアリックスは、一家の救出に奔走し、息子[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]も、戦艦[[マールバラ (戦艦)|マールバラ]]を差し向けて、皇太后マリア(ダウマー)と娘一家らをクリミアから[[黒海]]を経て救い出した。ロシア皇帝ニコライ2世一家の銃殺を知らせる公式文書が届いた時、アリックスはジョージ5世とともに大きな衝撃を受けた。その後、クリミアから救出されたダウマーに再会したが、ジョージ5世がニコライ2世一家の亡命を拒んだのであり、実の息子や孫たちを殺された妹に言葉をかけられなかったと言う。


== 補記 ==
== 補記 ==
[[画像:Alexandra of UK with daughter Victoria.jpg|thumb|120px|アレクサンドラヴィクトリア]]
[[画像:Queen Alexandra-Louise and Victoria.jpg|thumb|200px|左からルイーズ、アレクサンドラヴィクトリア]]
* [[難聴]]の障害があったが、歳を追うごとに深刻化して悩ませた。
[[画像:Queen Alexandra-Louise and Victoria.jpg|thumb|120px|左からルイーズ、アレクサンドラ、ヴィクトリア]]
* 瘰癧(るいれき。頸部リンパ節結核)の手術による醜い傷跡が首にあり、それを隠すため長い美しい髪を垂らした。髪を結い上げるのが流行すれば、宝石をちりばめた[[チョーカー]]をし、それぞれが王妃の作った流行となった。なお、夫エドワードがアリックスへの愛情を完全に無くし、以後彼女を顧みなくなったのは、この傷跡を見たからだといわれる。
*[[難聴]]の障害があったが、歳を追うごとに深刻化して悩ませた。
[[画像:Royals Visit Exhibition of Naval Photographs, London, 1918 Q19620.jpg|thumb|200px|パラソルを手にするアレクサンドラ(1918年)]]
*瘰癧(るいれき。頸部リンパ節結核)の手術による醜い傷跡が首にあり、それを隠すため長い美しい髪を垂らした。髪を結い上げるのが流行すれば、宝石をちりばめた[[チョーカー]]をし、それぞれが王妃の作った流行となった。なお、夫エドワードがアリックスへの愛情を完全に無くし、以後彼女を顧みなくなったのは、この傷跡を見たからだといわれる。
*1867年、3人目の子供[[ルイーズ (ファイフ公爵夫人)|ルイーズ]]を出産後に合併症にかかって足を自由に動かす事ができなくなり、晩年まで足を引きずって歩いた。[[杖]]の代わりに[[パラソル]]を手にするようになると、パラソルを持つのが社交界で流行した。
* 1867年、3人目の子供[[ルイーズ (ファイフ公爵夫人)|ルイーズ]]を出産後に合併症にかかって足を自由に動かす事ができなくなり、晩年まで足を引きずって歩いた。[[杖]]の代わりに[[パラソル]]を手にするようになると、パラソルを持つのが社交界で流行した。
*[[スイートピー]]が好きな花で、式典や晩餐会でスイートピーを飾らせた。そのおかげで各国でスイートピーが有名になった。
* [[スイートピー]]が好きな花で、式典や晩餐会でスイートピーを飾らせた。そのおかげで各国でスイートピーが有名になった。
*[[カクテル]]の「[[アレクサンダー (カクテル)|アレクサンダー]]」はエドワード7世がその妃であるアリックスに捧げた「アレクサンドラ」に由来すると言われているが真偽は不明。
* [[カクテル]]の「[[アレクサンダー (カクテル)|アレクサンダー]]」はエドワード7世がその妃であるアリックスに捧げた「アレクサンドラ」に由来すると言われているが真偽は不明。
*[[フルマラソン#42.195kmの由来|マラソン]]の距離が42.195kmになったのは、1908年の[[ロンドンオリンピック (1908年)|ロンドンオリンピック]]の際にアリックス自ら'''スタート地点は[[ウィンザー城|宮殿]]の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前に'''と注文をつけたことに由来している。当初はウィンザー城からシェファードブッシュ競技場の42km弱(26マイル)をルートとしていたものの、アリックスの注文によって半端な数字の距離(385ヤード)だけ延長され、それが現在まで続いている。
* [[マラソン#42.195 kmの由来|マラソン]]の距離が42.195kmになったのは、1908年の[[ロンドンオリンピック (1908年)|ロンドンオリンピック]]の際にアリックス自ら'''スタート地点は[[ウィンザー城|宮殿]]の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前に'''と注文をつけたことに由来している。当初はウィンザー城からシェファードブッシュ競技場の42km弱(26マイル)をルートとしていたものの、アリックスの注文によって半端な数字の距離(385ヤード)だけ延長され、それが現在まで続いている。
*ロンドン病院に関心が深く、頻繁に訪れていた。彼女の会った患者のひとりに「エレファント・マン」として知られる[[ジョゼフ・メリック]]がいる<ref>Battiscombe, pp. 257–258 and Duff, pp. 148–151</ref>。
* ロンドン病院に関心が深く、頻繁に訪れていた。彼女の会った患者のひとりに「エレファント・マン」として知られる[[ジョゼフ・メリック]]がいる<ref>Battiscombe, pp. 257–258 and Duff, pp. 148–151</ref>。
*動物が非常に好きであり、彼女の居城であったサンドリンガム宮には多種の動物が贈られ、数が増えすぎた動物たちは[[動物園]]に寄贈された。愛犬家でもあり、屋外では[[セント・バーナード|セントバーナード]]、[[ニューファンドランド (犬)|ニューファンドランド]]、[[北極犬]]、[[バセットハウンド]]、[[チャウチャウ]]、[[ダックスフント]]などを、室内では[[パグ]]・[[狆]]・[[ペキニーズ]]を飼っており、彼女の散歩の際は10匹以上の犬を連れていた。犬は彼女の命令に非常に従順であった。また[[ケンネルクラブ]]の後援者でもあり、彼女の犬は何度も品評会に出されて入賞している。彼女は夜になると夜食の[[サンドウィッチ]]を部屋の外に運ばせ、こっそりとベッドの中で犬たちに食べさせていた。
* 動物が非常に好きであり、彼女の居城であったサンドリンガム宮には多種の動物が贈られ、数が増えすぎた動物たちは[[動物園]]に寄贈された。愛犬家でもあり、屋外では[[セント・バーナード|セントバーナード]]、[[ニューファンドランド (犬)|ニューファンドランド]]、[[北極犬]]、[[バセットハウンド]]、[[チャウチャウ]]、[[ダックスフント]]などを、室内では[[パグ]]・[[狆]]・[[ペキニーズ]]を飼っており、彼女の散歩の際は10匹以上の犬を連れていた。犬は彼女の命令に非常に従順であった。また[[ケンネルクラブ]]の後援者でもあり、彼女の犬は何度も品評会に出されて入賞している。彼女は夜になると夜食の[[サンドウィッチ]]を部屋の外に運ばせ、こっそりとベッドの中で犬たちに食べさせていた。


== 子女 ==
== 子女 ==
*第1王子 [[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター・クリスティアン・エドワード]](1864年 - 1892年) - [[クラレンス公]]
* 第1王子 [[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター・クリスティアン・エドワード]](1864年 - 1892年) - [[クラレンス公]]
*第2王子 [[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート]](1865年 - 1936年) - ジョージ5世
* 第2王子 [[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート]](1865年 - 1936年) - ジョージ5世
*第1王女 [[ルイーズ (ファイフ公爵夫人)|ルイーズ・ヴィクトリア・アレクサンドラ・ダグマー]](1867年 - 1931年) - [[ファイフ公爵|ファイフ公]][[アレグザンダー・ダフ (初代ファイフ公爵)|アレグザンダー・ダフ]]と結婚
* 第1王女 [[ルイーズ (ファイフ公爵夫人)|ルイーズ・ヴィクトリア・アレクサンドラ・ダグマー]](1867年 - 1931年) - [[ファイフ公爵|ファイフ公]][[アレグザンダー・ダフ (初代ファイフ公爵)|アレグザンダー・ダフ]]と結婚
*第2王女 [[ヴィクトリア・アレクサンドラ (イギリス王女)|ヴィクトリア・アレクサンドラ・オルガ・メアリー]](1868年 - 1935年)
* 第2王女 [[ヴィクトリア・アレクサンドラ (イギリス王女)|ヴィクトリア・アレクサンドラ・オルガ・メアリー]](1868年 - 1935年)
*第3王女 [[モード (ノルウェー王妃)|モード・シャーロット・メアリー・ヴィクトリア]](1869年 - 1938年) - [[ノルウェー]]王[[ホーコン7世]]と結婚
* 第3王女 [[モード (ノルウェー王妃)|モード・シャーロット・メアリー・ヴィクトリア]](1869年 - 1938年) - [[ノルウェー]][[ノルウェー君主一覧|国]][[ホーコン7世]]と結婚
*第3王子 アレクサンダー・ジョン・チャールズ・アルバート(1871年) - 誕生の翌日に死亡
* 第3王子 アレクサンダー・ジョン・チャールズ・アルバート(1871年) - 誕生の翌日に死亡


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat-inline|Queen Alexandra of the United Kingdom}}
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* [[ココシニク]]
* [[アレクサンドラトリバネアゲハ]]


{{先代次代|[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]]王妃|1901年 - 1910年|[[アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン|アデレード]]|[[メアリー・オブ・テック]]}}
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アレクサンドラ・オブ・デンマーク
Alexandra of Denmark
イギリス王妃
インド皇后
1889年頃撮影
在位 1901年1月22日 - 1910年5月6日
戴冠式 1902年8月9日

全名
出生 1844年12月1日
 デンマークコペンハーゲン
死去 (1925-11-20) 1925年11月20日(80歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドノーフォークサンドリンガム・ハウス
埋葬 1925年11月28日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドウィンザー聖ジョージ礼拝堂
結婚 1863年3月10日
配偶者 エドワード7世
子女
家名 リュクスボー家(グリュックスブルク家)
父親 クリスチャン9世
母親 ルイーセ・ア・ヘッセン=カッセル
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アレクサンドラ・オブ・デンマーク英語: Alexandra of Denmark,デンマーク語: Alexandra af Denmark, 1844年12月1日 - 1925年11月20日)はイギリス国王エドワード7世の妃でイギリス王妃インド皇后。

リュクスボー朝初代デンマーク国王クリスチャン9世の長女。長兄にデンマーク王フレゼリク8世、弟にギリシャ国王ゲオルギオス1世、妹にロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后マリアハノーファー王国の元王太子妃テューラ

ジョージ5世ノルウェー王妃モードの母。イギリス女王エリザベス2世ノルウェー国王ハーラル5世曾祖母

エドワード7世と結婚し、3男3女の母となる。なお6児全員年子である。夫エドワードの不倫と冷え切った夫婦関係や姑ヴィクトリア女王との愛憎表裏一体する複雑な確執などで心身ともに疲れ果てたが、王太子妃時代には戦争で亡くなった遺族の経済援助のためイギリス陸海空軍人家族協会を設立したり、王妃時代はイギリス陸軍看護施設を設立したりと功績を残した。

フルネーム[編集]

英語全名はアレクサンドラ・キャロライン・マリー・シャーロット・ルイーズ・ジュリア・オブ・シュレスヴィグ=ホルスタイン=ゾンダーバーク=グリュックスバーク(Alexandra Caroline Marie Charlotte Louise Julia of Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg

デンマーク語ではアレクサンドラ・カロリーネ・マリー・シャロデ・ルイーセ・ユリア・ア・シュレスヴィグ=ホルステン=ゾンダーボー=グリュックスボー(Alexandra Caroline Marie Charlotte Louise Julia af Slesvig-Holsten-Sonderburg-Glücksburg

生涯[編集]

デンマーク王女[編集]

1844年12月1日デンマークの首都コペンハーゲンで、後にデンマーク王クリスチャン9世となるグリュックスブルク公子クリスチャンとその妃ルイーセの長女として誕生した。アレクサンドラは家族からは「アリックス」(Alix)という愛称で呼ばれた。妹のダウマー(後のロシア皇后マリア・フョードロヴナ)とは歳も近く、同じ部屋で育ったということもあり、大の仲良しだった。父が1852年の王位継承法で嗣子のいないデンマーク国王フレゼリク7世の継承者に選ばれるまではシュレースヴィヒホルシュタインゾンダーブルクグリュックスブルク公であったが、財力がなかったためにデンマーク王室から無料で借りたコペンハーゲン市内の小さな家で暮らしていた。家庭教師を雇う金銭的余裕もなかったためにアレクサンドラは妹弟ともに両親から教育を受け、英語はイギリス人看護婦とコペンハーゲンのイギリス人牧師から習った。ダウマーとともに美貌の王女と呼ばれ、2人が結婚年齢に達するとヨーロッパの諸王室から縁談が舞い込んだ。

そんな中、王位を継承して間もない父クリスチャン9世にイギリス政府からアリックス王女とイギリス王太子アルバート・エドワードとの縁談が持ちかけられた。イギリス王室との縁談は、経済的窮地にあるデンマーク王室にとって願ってもない話だった。しかし、当時デンマークはプロイセンシュレースヴィヒ=ホルシュタインを巡って争っており、親普派であるヴィクトリア女王はデンマーク王女を王太子妃に迎えることに消極的だった。また、イギリス王室はジョージ1世以来ドイツ領邦とのつながりが深く、ヴィクトリア女王の母ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトと夫アルバート公はドイツ出身、また長女ヴィクトリアをプロイセン王太子に、次女アリスをヘッセン大公子にそれぞれ嫁がせていた。

しかし、アルバート・エドワードの素行の悪さを直したかった女王は、美貌の妃を与えて大人しくさせることを考えた。そこで重い腰を上げ、美貌の誉れ高いアリックス王女と会うことを決めた。アリックスとの対面場所はヴィクトリア女王の叔父ベルギー国王レオポルド1世の住むベルギー王宮に決めた。レオポルド1世は失態のないようベルギー王宮の女官たちにあれこれ見合いの準備を細かく指示した。この縁組に消極的だったヴィクトリア女王とアルバート・エドワードは、対面したアリックスのその美貌に惚れ込み、共に王太子妃に望んだためこの縁談は成立した。イギリス王太子と婚約したアリックスは結婚のためデンマークからイギリスに旅立った。コペンハーゲンから発つ際、大の仲良しだった妹ダウマーは涙して見送った。

プリンセス・オブ・ウェールズ[編集]

アレクサンドラ王太子妃(1864年撮影)
アレクサンドラ王太子妃(ヴィンターハルター画)

1863年3月10日、王太子アルバート・エドワードと結婚。プリンセス・オブ・ウェールズとなる。2人の間には3男3女が生まれたが、結婚後も王太子の奔放な女性遍歴は絶えることはなかった。夫の不倫と自分への愛情の無さを見て見ぬふりを通し、その屈辱を子育てで耐え忍んでいたアリックスは、息子たちに「お父さまの様に愚かな人間になってはなりませんよ」と言い聞かせていた。夫の漁色と愛情の無い冷え切った夫婦生活で悩むアリックスは、妹ダウマー夫妻の仲の良さを羨ましがったという。

アリックスは、夫の愛人と言われた女性には蔑称をつけて呼んでいた。また、夫と関係を噂されている女性が連れ立って歩いているのを見かけると、夫をその女性共々「豚」に例えた事もある。子育てに専念する事で夫の不倫と冷え切った夫婦関係の屈辱を耐えていたアリックスも、子供が親元から離れていくと、一人で屈辱に耐える日々が始まる。そんなアリックスを打ちのめしたのが、長男アルバート・ヴィクターの死であった。未来の国王として育ててきたアリックスにとって、アルバート・ヴィクターが28歳の若さで病死したことは大きな痛手で、一時は王室行事に出席しない日々が続いた程だった。

アルバート・ヴィクターの婚約者だったテック公女メアリーは、次男ジョージ・フレデリック(後のジョージ5世)と結婚した。ジョージは長男よりも手のかかった王子で、一度癇癪を起こすと暴れ出すという気性の激しい次男を育てるのは苦労した。また、メアリー妃は姑のアリックスとは性格や価値観の不一致で仲が悪かった。1894年、メアリーはエドワード王子(後のエドワード8世)を出産したが、イギリス王室のしきたりに従い子供の教育を一切せず、侍従や女官に任せていた。子供には母親の愛が必要と感じたアリックスが、もう少し子供に接するように注意したが、メアリーは「王室のしきたり」だとして姑の言葉を一切聞き入れなかった。メアリー妃はヴィクトリア女王のように王室のしきたりを厳重に守っており、ヴィクトリア女王もメアリーを愛していた。そのため、アリックスは孫たちには祖母として、時には母親として接した。特に、1901年にヴィクトリア女王が崩御した後に、次男夫妻が9ヶ月もの間4人の子供達を置いて植民地などを訪問する事となった際は、両親に甘えることすらできない孫達を不憫に思い、非常に可愛がりながら接していたという。

アリックスの義理の妹でヴィクトリア女王の四女ルイーズが年頃になると、ヴィクトリア女王は娘のために良い嫁ぎ先を探し始めた。アリックスは「自分の兄であるデンマーク王太子フレゼリク(後のフレゼリク8世)はどうか」と打診した。が、女王は第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争で、長女ヴィクトリアのいるプロイセンと義理の娘アリックスの故国デンマークとが争った事態に心を痛めていたため、この縁組に反対した。結局ルイーズはスコットランド貴族アーガイル公爵の後継者のローン侯爵ジョンと結婚した。これにはアリックスの夫アルバート・エドワード王太子が難色を示した(当時、一国の君主の娘が臣下に降嫁することは問題外であった)。

アリックスは義弟のザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートの妃マリアとも仲が悪かった。彼女の父ロシア皇帝アレクサンドル2世は、娘マリアには“Her Imperial Highness”の称号を使わせつづけることを無理やり英国王室に承知させるなど、父娘で傲慢さが評判だった。1887年、ヴィクトリア女王在位50年式典での座席位置でどちらが上位に座るかが問題になるとマリアは「自身はロシア皇女であり、たかがデンマークの一王女にすぎないアリックスよりも立場は上」と発言。一方、アリックスは「ロシア皇女といっても前皇帝の娘、今のロシア皇帝の妃は自身の妹であり、たかがドイツの一公国の妃にすぎないマリアが上位なのはおかしい」と主張。しかし結局、マリアが上位に座ることとなり、アリックスは屈辱を甘受せざるを得なかった。

この当時は、ロシア皇后となった妹ダウマーとは、毎年のようにパリで落ち合い、お揃いのドレスで社交界に現れたり、デンマークの実家で互いの家族と休暇を楽しんだり、一家で親交を深めた。父のクリスチャン9世亡き後はコペンハーゲンの北にダウマー一家と会うための別荘を共同で購入している。

アリックスは、妹ダウマーの息子で甥である皇太子ニコライ(後のニコライ2世)とヘッセン大公女アレクサンドラの結婚を、ダウマーと皇帝アレクサンドル3世夫妻と共に反対した。アレクサンドラ大公女は、非社交的でヒステリックな癇癪を引き起こす事がたびたびあり、広大な領地をもつロマノフ王朝の皇后として責務を果たせるのかどうかを疑っていた。また、アレクサンドラの生家のヘッセン大公家では、一族に次々と不吉な出来事が起きていたため、ヘッセン大公家の血を引くアレクサンドラがロシア帝室に嫁ぎ、ロマノフ家に不幸が及ぶのではないかと心配していた。

そんなさなか、ダウマーの夫でアリックスの義弟アレクサンドル3世が病に倒れ、1894年に崩御した。アレクサンドル3世の葬儀参列のため、夫のアルバート・エドワードと共にロシアを訪問し、夫の崩御で悲しみに暮れるダウマーを励ました。また、ニコライ2世に、ダウマーと共に改めてアレクサンドラとの結婚に反対したが、アルバート・エドワード王太子とニコライ2世が取り決めて、結婚が成立した。最後までこの結婚に反対したアリックスとダウマーは祝うことができなかった。

その誇り高い美貌のために、アリックスは《イングランドエリーザベト》とも呼ばれた。オーストリア帝国の皇后エリーザベト本人もアリックスの美貌と自身の美貌のどちらが優れているか気にしており、ヴィクトリア女王の晩餐会に出席した際には、いち早く言葉を交わした。また、夫のエドワード・アルバートは、エリーザベト皇后とルドルフ皇太子と仲が良かった。

子女たちの結婚[編集]

ヴィクトリア王女とアリックス(左・1920年頃)

アリックスは子女たちの結婚に対し、姑ヴィクトリア女王や夫エドワード・アルバートが勧める縁談でも反対する事が多々あり、それが影響して破談となる事もあった。クラレンス公アルバート・ヴィクターの妃候補にヘッセン大公女アレクサンドラ(後のロシア皇后アレクサンドラ)が浮上したが、アリックスが断固反対し白紙に、次男ヨーク公ジョージとザクセン=コーブルク=ゴータ公女マリー(後のルーマニア王妃)が恋愛関係にあり結婚に進展した際、ヴィクトリア女王や王室の面々が賛成しても反対し破談となるなど、また、次女ヴィクトリア・アレクサンドラ王女が生涯独身であったのも、アリックスが愛娘の健康に配慮し、結婚を思い留まらせたためとも言われており、ヴィクトリア女王や夫アルバート・エドワードの影に隠れがちだったアリックスも、王室内では発言力も有していたのである。

イギリス王妃[編集]

戴冠式でのアレクサンドラ
アリス・ケッペル
王妃アレクサンドラ(1902年)

1901年、ヴィクトリア女王の崩御により、アルバート・エドワードがエドワード7世として即位し、アリックスはイギリス王妃となった。既に50歳を超えていたが、30代に見えたというほどの美貌を誇った。

潔癖症で手に接吻を受けるのを嫌う」「約束の時間を守れない」といった悪評もあったが、ヴィクトリア女王の長く重苦しい治世の後に、アリックスの天性の明るさは、誰からも好感を持たれたという。

エドワード7世の女遍歴はその後も絶えず、生涯愛人が切れ目なくそばにいた。1910年、王が危篤に陥ったとき、王妃はできる限りの連絡をとって王の友人を招き、最後の別れをさせた。

しかしアリックスは夫の最愛の女性であるアリス・ケッペルだけは、危篤状態になったエドワード7世自らが連絡をとって、最後の別れをするために手元に呼び寄せたにも拘らず、夫が危篤になるや国王の寝室から追い出した。その後もアリスには気を許さず、一生彼女を憎悪してやまなかった。

エドワード7世の王太子時代からの愛人であったアリスは、王太子妃アリックスと同様、時にはそれ以上の扱いを受け、王室の公式行事にエドワード7世と共に参列した。公衆の面前でエドワードと同道する際、彼女は控えめに振る舞った。自分の愛妾としての立場を十分にわきまえ、王妃への儀礼を第一に心がけていたが、エドワード7世はアリスが自分の寝室に自由に行き来できるように取り計らっていたため、彼女はアリックスを無視して寝室に入り、その目前でエドワード7世を愛撫したりするなど、アリックスをいらだたせた。

イギリス王太后[編集]

1917年ロシア革命が勃発し、甥であるロシア皇帝ニコライ2世が退位してロマノフ王朝が打倒されると、アリックスは皇帝一家の安否を心配した。そんな中、ロシアで皇族・貴族の迫害が始まり、妹ダウマーら一部の皇族・貴族はクリミア半島ヤルタに幽閉された。妹が幽閉されている事を知ったアリックスは、一家の救出に奔走し、息子ジョージ5世も、戦艦マールバラを差し向けて、皇太后マリア(ダウマー)と娘一家らをクリミアから黒海を経て救い出した。ロシア皇帝ニコライ2世一家の銃殺を知らせる公式文書が届いた時、アリックスはジョージ5世とともに大きな衝撃を受けた。その後、クリミアから救出されたダウマーに再会したが、ジョージ5世がニコライ2世一家の亡命を拒んだのであり、実の息子や孫たちを殺された妹に言葉をかけられなかったと言う。

補記[編集]

左からルイーズ、アレクサンドラ、ヴィクトリア
  • 難聴の障害があったが、歳を追うごとに深刻化して悩ませた。
  • 瘰癧(るいれき。頸部リンパ節結核)の手術による醜い傷跡が首にあり、それを隠すため長い美しい髪を垂らした。髪を結い上げるのが流行すれば、宝石をちりばめたチョーカーをし、それぞれが王妃の作った流行となった。なお、夫エドワードがアリックスへの愛情を完全に無くし、以後彼女を顧みなくなったのは、この傷跡を見たからだといわれる。
パラソルを手にするアレクサンドラ(1918年)
  • 1867年、3人目の子供ルイーズを出産後に合併症にかかって足を自由に動かす事ができなくなり、晩年まで足を引きずって歩いた。の代わりにパラソルを手にするようになると、パラソルを持つのが社交界で流行した。
  • スイートピーが好きな花で、式典や晩餐会でスイートピーを飾らせた。そのおかげで各国でスイートピーが有名になった。
  • カクテルの「アレクサンダー」はエドワード7世がその妃であるアリックスに捧げた「アレクサンドラ」に由来すると言われているが真偽は不明。
  • マラソンの距離が42.195kmになったのは、1908年のロンドンオリンピックの際にアリックス自らスタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前にと注文をつけたことに由来している。当初はウィンザー城からシェファードブッシュ競技場の42km弱(26マイル)をルートとしていたものの、アリックスの注文によって半端な数字の距離(385ヤード)だけ延長され、それが現在まで続いている。
  • ロンドン病院に関心が深く、頻繁に訪れていた。彼女の会った患者のひとりに「エレファント・マン」として知られるジョゼフ・メリックがいる[1]
  • 動物が非常に好きであり、彼女の居城であったサンドリンガム宮には多種の動物が贈られ、数が増えすぎた動物たちは動物園に寄贈された。愛犬家でもあり、屋外ではセントバーナードニューファンドランド北極犬バセットハウンドチャウチャウダックスフントなどを、室内ではパグペキニーズを飼っており、彼女の散歩の際は10匹以上の犬を連れていた。犬は彼女の命令に非常に従順であった。またケンネルクラブの後援者でもあり、彼女の犬は何度も品評会に出されて入賞している。彼女は夜になると夜食のサンドウィッチを部屋の外に運ばせ、こっそりとベッドの中で犬たちに食べさせていた。

子女[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Battiscombe, pp. 257–258 and Duff, pp. 148–151

関連項目[編集]

ウィキメディア・コモンズには、アレクサンドラ・オブ・デンマークに関するカテゴリがあります。

先代
アデレード
グレートブリテン及びアイルランド連合王国王妃
1901年 - 1910年
次代
メアリー
先代
インド皇后
1901年 - 1910年
次代
メアリー