「長井貞頼」の版間の差分

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'''長井 貞頼'''(ながい さだより)は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]。[[備後国|備後]][[国人]][[長井氏]]4代当主。
'''長井 貞頼'''(ながい さだより)は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]。[[備後国|備後]][[国人]][[長井氏]]4代当主。

== 生涯 ==
== 生涯 ==
鎌倉幕府に仕えていたが、[[建武の新政]]後は[[足利尊氏]]に従って活動する。備後国の所領以外に[[播磨国]]浦上荘、[[越後国]]社荘、[[出雲国]]来次荘の地頭職を得た。南朝:[[正平 (日本)|正平]]6年/北朝:[[観応]]2年([[1351年]])から始まる[[観応の擾乱]]で備後国内が混乱すると、備後守護[[岩松頼宥]]に援軍を送るなど支援している。南朝:正平18年/北朝:[[貞治]]2年([[1363年]])に[[宮兼信]]と共に備後宮内合戦で[[足利直冬]]党と戦い、討死した。
鎌倉幕府に仕えていたが、[[建武の新政]]後は[[足利尊氏]]に従って活動する。備後国の所領以外に[[播磨国]]浦上荘、[[越後国]]社荘、[[出雲国]]来次荘の地頭職を得た。南朝:[[正平 (日本)|正平]]6年/北朝:[[観応]]2年([[1351年]])から始まる[[観応の擾乱]]で備後国内が混乱すると、備後守護[[岩松頼宥]]に援軍を送るなど支援している。南朝:正平18年/北朝:[[貞治]]2年([[1363年]])に[[宮兼信]]と共に備後宮内合戦で[[足利直冬]]党と戦い、討死した。

== 脚注 ==
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== 参考資料 ==
== 参考資料 ==
*[[広島県]]編『広島県史 中世 通史II』広島県、1984年
*[[広島県]]編『広島県史 中世 通史II』広島県、1984年

== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[安芸福原氏]]
*[[安芸福原氏]]

2024年5月17日 (金) 11:49時点における最新版

 
長井貞頼
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不詳
死没 南朝:正平18年/北朝:貞治2年9月20日1363年10月27日[1]
別名 号:宗岳
官位 弾正蔵人
幕府 鎌倉幕府室町幕府
主君 北条高時足利尊氏義詮
氏族 大江姓長井氏
父母 父:長井頼秀 母:臼井氏
貞広頼元
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長井 貞頼(ながい さだより)は、鎌倉時代末期から南北朝時代武将備後国人長井氏4代当主。

生涯[編集]

鎌倉幕府に仕えていたが、建武の新政後は足利尊氏に従って活動する。備後国の所領以外に播磨国浦上荘、越後国社荘、出雲国来次荘の地頭職を得た。南朝:正平6年/北朝:観応2年(1351年)から始まる観応の擾乱で備後国内が混乱すると、備後守護岩松頼宥に援軍を送るなど支援している。南朝:正平18年/北朝:貞治2年(1363年)に宮兼信と共に備後宮内合戦で足利直冬党と戦い、討死した。

脚注[編集]

  1. ^ 『宇部市史 通史篇』宇部市史編纂委員会、1966年、p.262。

参考資料[編集]

  • 広島県編『広島県史 中世 通史II』広島県、1984年

関連項目[編集]