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「石田文樹」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
1966年(昭和41年)8月22日、茨城県[[新治郡]][[新治村 (茨城県新治郡2006年)|新治村]](現[[土浦市]])で生まれる。小学3年の時に[[投手]]として野球を始める。それ以来、投手一筋でやってきた。
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[[茨城県立取手第二高等学校|取手第二高]]では当時の監督であった[[木内幸男]]の指導の下、1年秋からエース投手になる。高校同期のチームメイトに[[吉田剛]][[捕手]](のち[[遊撃手]])がいた。甲子園に通算3回出場。2年生の時の{{by|1983年}}春の[[第55回選抜高等学校野球大会|第55回選抜]]では1回戦で[[近畿大学泉州高等学校|泉州高]]に敗。翌{{by|1984年}}春の[[第56回選抜高等学校野球大会|第56回選抜]]ではエース、4番打者として連続出場し、準々決勝に進出するが[[岩倉高等学校|岩倉高]]に敗退。同年夏の[[第66回全国高等学校野球選手権大会|第66回全国選手権]]では順調に勝ち進み、決勝で[[KKコンビ]]([[清原和博]]と[[桑田真澄]])を擁する[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]を破り、優勝を飾った<ref name="base_20040426_34">『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、P.42-43</ref><ref name="nikkan">{{Cite web|和書|date=2008-7-15|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20080715-384233.html|title=取手二で全国制覇、石田文樹氏が死去|publisher=日刊スポーツ |accessdate=2013-5-24}}</ref>。同年秋の[[第39回国民体育大会|奈良わかくさ国体]]でも、決勝でPL学園を降し優勝した。
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高校卒業後は、[[早稲田大学]]にスポーツ推薦で進学するが半年で中退し、[[社会人野球]]の[[ENEOS野球部|日本石油]]に入社。[[都市対抗野球大会]]には{{by|1987年}}から補強選手を含めて2年連続で登板。{{by|1988年}}、第43回[[JABA東京スポニチ大会|東京スポニチ大会]]にエースとして優勝、最高殊勲選手に選出される。
高校卒業後は、[[早稲田大学]]にスポーツ推薦で進学するが半年で中退し、[[社会人野球]]の[[ENEOS野球部|日本石油]]に入社した。[[都市対抗野球大会]]には{{by|1987年}}から補強選手を含めて2年連続で登板した。{{by|1988年}}、第43回[[JABA東京スポニチ大会|東京スポニチ大会]]にエースとして優勝に導き、最高殊勲選手に選出される。


[[1988年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1988年のプロ野球ドラフト会議]]で[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]から5位指名を受けて入団。背番号は「'''13'''」に決まった。
[[1988年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1988年のプロ野球ドラフト会議]]で[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]から5位指名を受けて入団した。背番号は「'''13'''」に決まった。


大洋では一軍でも二軍でも主に中継ぎ投手としての起用が多かった。{{by|1989年}}は8月29日の対[[中日ドラゴンズ]]戦で一軍での初登板を果たし、9月9日の対[[阪神タイガース]]戦で一軍での初勝利を挙げた。{{by|1990年}}は主に中継ぎとして17試合に登板、防御率2.86と結果を残すが、その後は登板機会が減少。
大洋では一軍でも二軍でも主に中継ぎ投手としての起用が多かった。{{by|1989年}}は8月29日の対[[中日ドラゴンズ]]戦で一軍での初登板を果たし、9月9日の対[[阪神タイガース]]戦で一軍での初勝利を挙げた。{{by|1990年}}は主に中継ぎとして17試合に登板、防御率2.86と結果を残すが、その後は登板機会が減少した


チームの名前が「横浜ベイスターズ」になってからは背番号「'''52'''」に変更。二軍で中継ぎ投手として起用されていた。{{by|1994年}}には登録名を本名の「石田文樹」から「石田大也」に変更したが、同年限りで現役を引退。その後も[[打撃投手]]として横浜に残る。背番号は「'''88'''」。1999年には登録名を再び本名の「石田文樹」に戻した。
チームの名前が「横浜ベイスターズ」になってからは背番号「'''52'''」に変更した。二軍で中継ぎ投手として起用されていた。{{by|1994年}}には登録名を本名の「石田文樹」から「石田大也」に変更したが、同年限りで現役を引退した。その後も[[打撃投手]]として横浜に残る。背番号は「'''88'''」。1999年には登録名を再び本名の「石田文樹」に戻した。


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== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==

2024年5月20日 (月) 02:05時点における版

石田 文樹
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 茨城県新治郡新治村(現在の土浦市
生年月日 (1966-08-22) 1966年8月22日
没年月日 (2008-07-15) 2008年7月15日(41歳没)
身長
体重
177 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1988年 ドラフト5位
初出場 1989年8月29日
最終出場 1991年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

石田 文樹(いしだ ふみき、1966年昭和41年〉8月22日 - 2008年平成20年〉7月15日)は、茨城県出身のプロ野球選手投手)。

1994年から1998年までの登録名は「石田 大也」(読み方は「いしだ ともや」)。血液型はA型。

経歴

1966年(昭和41年)8月22日、茨城県新治郡新治村(現在の土浦市)で生まれる。小学3年の時に投手として野球を始める。それ以来、投手一筋でやってきた。

取手第二高では当時の監督であった木内幸男の指導の下、1年秋からエース投手になる。高校同期のチームメイトに]捕手の[[吉田剛](のち遊撃手)がいた。甲子園に通算3回出場した。2年生の時の1983年春の第55回選抜では1回戦で泉州高に敗退した。翌1984年春の第56回選抜ではエース、4番打者として連続出場し、準々決勝に進出するが岩倉高に敗退した。同年夏の第66回全国選手権では順調に勝ち進み、決勝でKKコンビ清原和博桑田真澄)を擁するPL学園を破り、優勝を飾った[1][2]。同年秋の奈良わかくさ国体でも、決勝でPL学園を降し優勝した。

高校卒業後は、早稲田大学にスポーツ推薦で進学するが半年で中退し、社会人野球日本石油に入社した。都市対抗野球大会には1987年から補強選手を含めて2年連続で登板した。1988年、第43回東京スポニチ大会にエースとして優勝に導き、最高殊勲選手に選出される。

1988年のプロ野球ドラフト会議横浜大洋ホエールズから5位指名を受けて入団した。背番号は「13」に決まった。

大洋では一軍でも二軍でも主に中継ぎ投手としての起用が多かった。1989年は8月29日の対中日ドラゴンズ戦で一軍での初登板を果たし、9月9日の対阪神タイガース戦で一軍での初勝利を挙げた。1990年は主に中継ぎとして17試合に登板し、防御率2.86と結果を残すが、その後は登板機会が減少した。

チームの名前が「横浜ベイスターズ」になってからは背番号を「52」に変更した。二軍で中継ぎ投手として起用されていた。1994年には登録名を本名の「石田文樹」から「石田大也」に変更したが、同年限りで現役を引退した。その後も打撃投手として横浜に残る。背番号は「88」。1999年には登録名を再び本名の「石田文樹」に戻した。

2008年7月15日の午後1時40分、直腸癌のため、神奈川県横浜市保土ヶ谷区内の病院で死去した[2]。没年齢は満41歳。死去当日の対広島東洋カープ戦で関係者は喪章を着けた。7月17日に通夜が営まれ、7月18日に告別式が営まれた。吉田、大久保博元[3]KKコンビなどの石田の個人的な関係者をはじめ、横浜からは当時の監督であった大矢明彦ら多くの球団関係者が通夜と告別式に参列した。弔辞は大洋同期入団の石井琢朗が読み上げた。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1989 大洋 4 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 26 6.2 5 1 3 0 1 3 0 0 5 5 6.75 1.20
1990 17 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 95 22.0 21 3 8 2 1 17 0 0 8 7 2.86 1.32
1991 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 22 4.2 4 2 4 0 1 2 0 0 5 5 9.64 1.71
通算:3年 25 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 143 33.1 30 6 15 2 3 22 0 0 18 17 4.59 1.35

記録

背番号

  • 13 (1989年 - 1992年)
  • 52 (1993年 - 1994年)
  • 88 (1995年 - 2008年)

登録名

  • 石田 文樹 (いしだ ふみき、1988年 - 1993年、1999年 - 2008年)
  • 石田 大也 (いしだ ともや、1994年 - 1998年)

参考文献

  1. ^ 『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、P.42-43
  2. ^ a b 取手二で全国制覇、石田文樹氏が死去”. 日刊スポーツ (2008年7月15日). 2013年5月24日閲覧。
  3. ^ 【不仲!?】同期入団、昭和42年の同級生について※原文ママ - デーブ大久保チャンネル2020年9月16日公開分

関連項目

外部リンク