「坪内士行」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m →‎著作: 『ラムのシェイクスピア物語』を追加した。
編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''坪内 士行'''(つぼうち しこう、[[1887年]][[8月16日]] - [[1986年]][[3月19日]])は演劇評論家、[[早稲田大学]]教授。女優・[[坪内ミキ子]]の父。
'''坪内 士行'''(つぼうち しこう、[[1887年]][[8月16日]] - [[1986年]][[3月19日]])は演劇評論家、[[早稲田大学]]教授。女優・[[坪内ミキ子]]の父。


[[名古屋市]]に生れる。[[坪内逍遥]]の兄義衛の子で、逍遥に子がなかったため7歳のときに養子となった。1909年、早稲田大学英文科卒業。その後、[[ハーバード大学]]に留学して演劇を学び、1915年に帰国。翌年、留学中知り合ったアメリカ人女性が後を追って日本に来たが、2年ほどで去っていったという。
[[愛知県]][[名古屋市]]に生れる。[[坪内逍遥]]の兄義衛の子で、逍遥に子がなかったため7歳のときに養子となった。1909年、早稲田大学英文科卒業。その後、[[ハーバード大学]]に留学して演劇を学び、1915年に帰国。翌年、留学中知り合ったアメリカ人女性が後を追って日本に来たが、2年ほどで去っていったという。


1919年、[[小林一三]]による[[宝塚音楽学校]]創立に関わった。同年、劇団員の雲井浪子と結婚したが、逍遥は士行の女性関係に怒り、養子縁組を解消した。その後も宝塚歌劇団や東宝劇団の運営に関わった。
1919年、[[小林一三]]による[[宝塚音楽学校]]創立に関わった。同年、劇団員の雲井浪子と結婚したが、逍遥は士行の女性関係に怒り、養子縁組を解消した。その後も宝塚歌劇団や東宝劇団の運営に関わった。
17行目: 17行目:
* 越しかた九十年、青蛙房、1977年4月
* 越しかた九十年、青蛙房、1977年4月


{{People-stub}}
{{DEFAULTSORT:つほうち しこう}}
{{DEFAULTSORT:つほうち しこう}}
[[Category:演劇]]
[[Category:演劇]]
24行目: 23行目:
[[Category:1887年生]]
[[Category:1887年生]]
[[Category:1986年没]]
[[Category:1986年没]]
{{Writer-stub}}

2008年11月28日 (金) 19:13時点における版

坪内 士行(つぼうち しこう、1887年8月16日 - 1986年3月19日)は演劇評論家、早稲田大学教授。女優・坪内ミキ子の父。

愛知県名古屋市に生れる。坪内逍遥の兄義衛の子で、逍遥に子がなかったため7歳のときに養子となった。1909年、早稲田大学英文科卒業。その後、ハーバード大学に留学して演劇を学び、1915年に帰国。翌年、留学中知り合ったアメリカ人女性が後を追って日本に来たが、2年ほどで去っていったという。

1919年、小林一三による宝塚音楽学校創立に関わった。同年、劇団員の雲井浪子と結婚したが、逍遥は士行の女性関係に怒り、養子縁組を解消した。その後も宝塚歌劇団や東宝劇団の運営に関わった。

著作

  • 西洋芝居土産、冨山房、1916年5月
  • なすな戀、博文館、1916年11月
  • ハムレット及びハムレットの研究 : 帝國劇場上演臺本、冨山房、1918年2月
  • 舞踊及歌劇大觀、東京堂書店、1925年12月
  • ダンス通、四六書院、1930年3月
  • 妙国寺事変、鶴書房、1944年8月
  • 坪内逍遥研究、早稲田大学出版部、1953年9月
  • ラムのシェイクスピア物語、冨山房、1954年12月
  • 新講シェイクスピア入門、京文社、1959年4月
  • 越しかた九十年、青蛙房、1977年4月