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== サマルカンド - 日本語 ==
== サマルカンド - 日本語 ==
サマルカンドには日本語を学習する学生も多く、特にサマルカンド外国語大学に学習者が多い{{要出典}}
サマルカンドには日本語を学習する学生も多く、特にサマルカンド外国語大学に学習者が多い。


== 姉妹都市 ==
== 姉妹都市 ==

2009年9月2日 (水) 14:04時点における版

世界遺産 サマルカンド‐文化交差路
ウズベキスタン
レギスタン広場
レギスタン広場
英名 Samarkand - Crossroads of Cultures
仏名 Samarkand – carrefour de cultures
登録区分 文化遺産
登録基準 (1),(2),(4)
登録年 2001年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
サマルカンドの位置
使用方法表示
シャーヒ・ズィンダ廟群
グーリ・アミール廟

サマルカンド英語: Samarkand; ペルシア語: سمرقند‎ (Samarqand); ウズベク語: Самарқанд (Samarqand))は中央アジアウズベキスタンの古都。アムダリヤ川の支流であるゼラフシャン川河岸にあり、機械化学綿花皮革関係の工業が行われる。人口約38万人(2001年)。ウズベキスタンの現大統領イスラム・カリモフはこの町の出身。

ステップ気候から地中海性気候への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれる。

歴史

紀元前10世紀ころからイラン系民族のオアシス都市として発展し、ギリシャ史料で紀元前4世紀アレクサンドロス3世率いるマケドニア王国遠征軍に最後まで抵抗したソグド人の都市「マラカンダ」の名で知られる。『後漢書』などの漢文資料では康国として表れ、昭武九姓の一つに挙げられている。玄奘三蔵や後世のアラビア語、ペルシア語の地理書によればソグディアナマーワラーアンナフルの中心と呼ばれている。都市国家の連合体であったソグディアナではサマルカンドの支配者が、時には都市国家連合全体を盟主として采配を振るうことがあり、8世紀初頭にはサマルカンド王デーワーシュティーチュが「ソグドの王」を名乗っている。

712年クタイバ・イブン=ムスリムによってウマイヤ朝のアラブ連合軍に征服され、イスラーム化が始まった。イスラーム時代を通じてブハラと並びマーラワーアンナフルの中心都市として発展した。759年にイスラーム世界で最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられる。1060年に成立した中国の歴史書新唐書西域伝には「康国は又の名を薩末鞬、あるいは颯秣建という」という意味の記載がある[1]。以後サーマーン朝の支配を受け、11世紀にカラハン朝に征服されてからはテュルク化も始まる。カラハン朝時代は有力王族の所領として1210年頃にホラズム・シャー朝アラーウッディーン・ムハンマドによってカラハン朝が滅亡してからはその支配下となり、ムハンマドは首都ウルゲンチからこのサマルカンドへ移した。商才に長けたソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって繁栄を続けてきた。しかし、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されたという。その当時の旧サマルカンドは、ラフマト川に南面するアフラースィアーブないしアフラシアブ(の丘)と呼ばれ、現在の市街地の北側にある。後にティムール朝の王族たちの廟となったシャーヒ・ズィンダ廟はこのアフラシアブの丘の東南遇に位置する。その後モンゴル帝国の中央アジア総督府の管轄となり、カイドゥの乱が終結してからはドゥア家のチャガタイ・ウルスの所領として確定した。1333年、イブン・バットゥータは北方のジョチ・ウルスからホラズムブハーラーを経由してタルマシリンが治めるチャガタイ・ウルスを訪れている。イブン.バットゥータはタルマシリンとの謁見を終えるとサマルカンドにも滞在しているが、市街地にあった宗教施設、宮殿、城壁、城門のたぐいは跡形も無く消滅して大部分が廃墟になっており、かつての町の内部はいくつも農園がある、と述べている。郊外にはアラブ征服時代の聖人廟があってサマルカンドの住民たちは頻繁に参詣に訪れているとも述べる。

14世紀末~15世紀にはティムール帝国首都として繁栄。市街地の内部にはティムールの墓廟であるグーリ・アミールやビビ・ハヌム・モスクなどが、アフラシアブにはシャーヒ・ズインダ廟群が築かれ、郊外にはティムール朝の王族やアミール、廷臣らが大小さまざまな庭園や牧場、宿営地などを設けられた。西域番国志によると、15世紀初頭、永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「撒馬児罕」と記録されている)を訪れている。ティムールの子、ウルグ・ベクの時代に天文台が築かれて、その当時の建物を含めて文化交差点としてユネスコ世界遺産(文化遺産)になっている。ティムール朝後期は諸王家がサマルカンドを巡って争奪を繰り返すようになり、後のムガル朝の始祖となったバーブルも故地のフェルガナから度々自ら遠征してこの争奪戦に加わり幾度か領有している。その後、1500年シャイバーニー朝ムハンマド・シャイバーニー・ハンによるジョチ・ウルス系のウズベク勢力に征服され、ティムール朝も滅ぼされた。その後はジャーン朝などテュルク系のウズベク人の国家ブハラ・ハン国に属し、首都の地位はブハラに奪われたが17世紀にはウルグ・ベクのマドラサと対になるシールダール・マドラサが追加されて現在のレギスタン広場が形成されるなど、中央アジアの主要都市のひとつとして機能した。しかし、18世紀中頃からはウズベク諸政権内部の対立や周辺の諸部族の抗争、さらにイランからアフシャール朝ナーデル・シャーの侵攻を受けるなどしたために荒廃が激しくなった。19世紀にはブハラ・アミール国の発展によって復興されたが、アミール・ナスルッラーが没してブハラからの支配が弱まると、1868年にはロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入された。サマルカンドはもともとブハラと同様イラン系であるペルシア語話者、すなわちタージークタジク人)の多い都市であったが、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定によりウズベク・ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までその首都であった。


サマルカンド - 日本語

サマルカンドには日本語を学習する学生も多く、特にサマルカンド外国語大学に学習者が多い。

姉妹都市


世界遺産

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

関連項目

ギャラリー

注釈

  1. ^ 新唐書巻二百三十八 列伝第一百四十六下 西域下

外部リンク