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[[紀元前8世紀]]ごろにはすでに[[ウラルトゥ]]の[[エレブニ要塞]]が[[アルギシュティ1世]]によって、[[北カフカース]]からの攻撃に備え、この地に築かれていた。[[紀元前4世紀]]までには[[アケメネス朝]]のアルメニア・[[サトラップ]]の主要な町になっていた。[[ヨーロッパ]]と中央アジア、[[インド]]を結ぶ交易路の中継地であったため、[[658年]]、[[アラブ]]によって征服される。その後、アルメニア人の[[バグラト朝]]の中枢として栄える。[[1387年]]、[[ティムール]]による包囲、略奪に遭う。[[イルハン朝]]の中心都市の一つともなる。以後、[[オスマン帝国]]と[[サファヴィー朝]]の角逐の場となっていく。[[1604年]]には[[アッバース1世]]の命により、多くの市民がペルシアに連れ去られた。[[1679年]]には大地震に見舞われた。[[サファヴィー朝]]では、[[エレバン・ハン国]]に編入される。[[1827年]]、[[第二次イラン・ロシア戦争]]において[[ロシア帝国]]が[[ガージャール朝]]を撃破し、1828年の[[トルコマンチャーイ条約]]でロシア領となった。その後、エラバンには多くのアルメニア人がペルシアから帰還してくる。[[1854年]]以降、都市計画がなされ、多くの大学が設立され、[[ギュムリ]]や[[トビリシ]]、[[アゼルバイジャン]]方面への鉄道建設がなされた。[[ロシア帝国]]が崩壊すると、[[1918年]]、[[ザカフカジエ]](南カフカース)は、[[ザカフカース民主主義連邦共和国]]として独立を宣言するもすぐに瓦解、[[アルメニア民主共和国]]として独立を宣言しエレバンは首都となった。[[1920年]]、[[ボリシェヴィキ]]の[[赤軍]]との間にエレバン争奪戦が展開され、結局、赤軍の手に落ちた。[[ソビエト社会主義共和国連邦]]を構成する共和国の一つとして、[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国]]が誕生し、その首都となる。エレバンはアルメニア人建築家[[アレクサンダー・タマニアン]]の都市計画に基づき、近代都市への作り変えられていった。[[1965年]]、[[アルメニア人虐殺]]50周年を巡るエレバンでの抗議運動は、ソ連における最初の大規模な反ソ運動へと発展した。[[1991年]]9月21日、アルメニア共和国が独立を宣言。エレバンは首都となった。 |
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標高1,000m程で、[[アララト平野]]の南東に位置する。三方を山に囲まれ、南は[[フラズダン川]]に向かって下降している。[[フラズダン川]]が市を2つに分けている。 |
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[[大陸性気候]]に属する。内陸で盆地的な地形から夏は極めて暑く、40°Cに達することも珍しくない。冬季は積雪を見、-15 °Cになることも多い。 |
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[[ソ連]]時代は、[[ロシア人]]、[[クルド人]]、[[アゼリー人]]、[[イラン人]]も多く居住していたが、[[1988年]]の[[ナゴルノ・カラバフ戦争]]でアゼリー人の人口は消滅し、アルメニア人と入れ替わった。ロシア人の多くも1990年代の経済不況でエレバンを離れた。従って、住民の多くはアルメニア人となったが、ヨーロッパや北米への移民流出が続き、人口は減り続けた。人口が増加に転じたのは、[[2007年]]以降である。 |
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アルメニアの[[GDP]]の過半はエレバンが生み出す。1990年以降、深刻な経済不況が続いているが、石油化学産業、アルミニウム産業等が盛んである。水力発電も盛んである。ワインやブランデー(アルメニアン・コニャック)の生産でも名高い。 |
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== 文化 == |
== 文化 == |
2009年9月2日 (水) 14:46時点における版
エレバン Երևան Yerevan | |||||
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位置 | |||||
エレバンの位置 | |||||
座標 : 北緯40度9分33秒 東経44度30分33秒 / 北緯40.15917度 東経44.50917度 | |||||
行政 | |||||
国 | アルメニア | ||||
市 | エレバン | ||||
市長 | Yervand Zakharyan | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
市域 | 227 km2 (87.6 mi2) | ||||
標高 | 989.4 m (3,246 ft) | ||||
人口 | |||||
人口 | (2007年現在) | ||||
市域 | 1,107,800人 | ||||
人口密度 | 5,196.4人/km2(13,458.6人/mi2) | ||||
その他 | |||||
等時帯 | UTC+4 (UTC+4) | ||||
夏時間 | UTC+5 (UTC+5) | ||||
公式ウェブサイト : http://www.yerevan.am/ |
エレバン(Երևան, Yerevan)はアルメニア共和国の首都である。エリバン(Erivan)、エレブニ(Erebuni)、エレウン(Ereun)と呼ばれていたこともある。Erewan、Ayrivan、Erevanなどの表記も見られる。人口約106万人(2004年)。機械製造や金属業、ワイン、ブランデー製造、たばこ製造業が盛ん。フラズダン川が市内を流れる。南にアララト山を臨む。現存する世界最古の町のひとつである。
歴史
紀元前8世紀ごろにはすでにウラルトゥのエレブニ要塞がアルギシュティ1世によって、北カフカースからの攻撃に備え、この地に築かれていた。紀元前4世紀までにはアケメネス朝のアルメニア・サトラップの主要な町になっていた。ヨーロッパと中央アジア、インドを結ぶ交易路の中継地であったため、658年、アラブによって征服される。その後、アルメニア人のバグラト朝の中枢として栄える。1387年、ティムールによる包囲、略奪に遭う。イルハン朝の中心都市の一つともなる。以後、オスマン帝国とサファヴィー朝の角逐の場となっていく。1604年にはアッバース1世の命により、多くの市民がペルシアに連れ去られた。1679年には大地震に見舞われた。サファヴィー朝では、エレバン・ハン国に編入される。1827年、第二次イラン・ロシア戦争においてロシア帝国がガージャール朝を撃破し、1828年のトルコマンチャーイ条約でロシア領となった。その後、エラバンには多くのアルメニア人がペルシアから帰還してくる。1854年以降、都市計画がなされ、多くの大学が設立され、ギュムリやトビリシ、アゼルバイジャン方面への鉄道建設がなされた。ロシア帝国が崩壊すると、1918年、ザカフカジエ(南カフカース)は、ザカフカース民主主義連邦共和国として独立を宣言するもすぐに瓦解、アルメニア民主共和国として独立を宣言しエレバンは首都となった。1920年、ボリシェヴィキの赤軍との間にエレバン争奪戦が展開され、結局、赤軍の手に落ちた。ソビエト社会主義共和国連邦を構成する共和国の一つとして、アルメニア・ソビエト社会主義共和国が誕生し、その首都となる。エレバンはアルメニア人建築家アレクサンダー・タマニアンの都市計画に基づき、近代都市への作り変えられていった。1965年、アルメニア人虐殺50周年を巡るエレバンでの抗議運動は、ソ連における最初の大規模な反ソ運動へと発展した。1991年9月21日、アルメニア共和国が独立を宣言。エレバンは首都となった。
地勢
標高1,000m程で、アララト平野の南東に位置する。三方を山に囲まれ、南はフラズダン川に向かって下降している。フラズダン川が市を2つに分けている。
気候
大陸性気候に属する。内陸で盆地的な地形から夏は極めて暑く、40°Cに達することも珍しくない。冬季は積雪を見、-15 °Cになることも多い。
民族構成
ソ連時代は、ロシア人、クルド人、アゼリー人、イラン人も多く居住していたが、1988年のナゴルノ・カラバフ戦争でアゼリー人の人口は消滅し、アルメニア人と入れ替わった。ロシア人の多くも1990年代の経済不況でエレバンを離れた。従って、住民の多くはアルメニア人となったが、ヨーロッパや北米への移民流出が続き、人口は減り続けた。人口が増加に転じたのは、2007年以降である。
経済
アルメニアのGDPの過半はエレバンが生み出す。1990年以降、深刻な経済不況が続いているが、石油化学産業、アルミニウム産業等が盛んである。水力発電も盛んである。ワインやブランデー(アルメニアン・コニャック)の生産でも名高い。
文化
- マテナダラン - 古文書館
教育
- エレバン国立大学(Yerevan State University)
- エレバン国立薬科大学(Yerevan State Medical University)
- エレバン国立工学大学(Yerevan State Engineering University)
交通
エレバンの西10kmのズヴァルトノッツに位置する国際空港。アルマヴィアの本拠地である。2004年から拡張工事が開始され、新国際線ターミナルは2007年に完成した。もう一つの新ターミナルは2012年に完成予定。
エレバン唯一の鉄道駅である。国際列車は現在、政治的理由からトルコやアゼルバイジャンへは運行されていない。唯一の国際線はグルジアのトビリシ行きである。イラン方面もエレバンからの路線はない。
市の中心部の広場から、トビリシやイランのタブリーズやテヘラン行きの長距離バスも出ている。
- 市内交通
地下鉄が1路線(13.4 km。10駅)ある。旧ソ連式の豪華な駅舎である。トロリーバスの路線が市内に24路線張り巡らされている。20世紀初頭から運行されてきたトラムは2004年に廃止された。
エレバン出身の人物
- シャヴォ・オダジアン - システム・オブ・ア・ダウンのベーシスト
- レヴォン・テル=ペトロシャン - 政治家
- ジョルジオ・ペトロシアン - キックボクサー。
- エドガル・マヌチャリアン - サッカー選手。オランダの名門アヤックス・アムステルダム所属。
姉妹都市
現在、エレバンは25の姉妹都市を有している:
- アンタナナリボ(マダガスカル共和国)
- アテネ(ギリシャ共和国)
- ベイルート(レバノン共和国)
- ブラチスラヴァ(スロバキア共和国)
- ケンブリッジ(アメリカ合衆国)
- カッラーラ(イタリア共和国)
- キシナウ(モルドバ共和国)
- ダマスカス(シリア・アラブ共和国)
- フィレンツェ(イタリア共和国)
- エスファハーン(イラン・イスラム共和国)
- キエフ(ウクライナ)
- ロサンゼルス(アメリカ合衆国)
- リヨン(フランス共和国)
- マルセイユ(フランス共和国)
- ミンスク(ベラルーシ共和国)
- モントリオール(カナダ ケベック州)
- モスクワ(ロシア連邦)
- オデッサ(ウクライナ)
- ポドゴリツァ(モンテネグロ共和国)
- ロストフ・ナ・ドヌ(ロシア連邦)
- サンクトペテルブルク(ロシア連邦)
- サンパウロ市(ブラジル連邦共和国)
- スタヴロポリ(ロシア連邦)
- トビリシ(グルジア)
- ヴォルゴグラード(ロシア連邦)