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[[570年]]以降、[[サーサーン朝]]ペルシアに征服され、[[627年]]のは、[[ビザンティン帝国]]と[[ハザール]]の連合軍に陥落。[[736年]]には[[カリフ]]・[[マルワーン2世]]に率いられた[[ウイマヤ朝]]の軍が進入。以後、[[トビリシ首長国]]として[[アラブ人]]に支配される。[[1068年]]、[[スルターン]]・[[アルプ・アルスラーン]]の下、[[セルジューク朝]]トルコの侵略を受ける。[[1122年]]に、セルジュークトルコとの激しい戦闘に勝利し、[[ダヴィト4世]](ダヴィト建設王)がトビリシを解放してグルジアを統一。西グルジアの[[クタイシ]]からトビリシに遷都し、全グルジアの首都となり王国の領土は拡大し繁栄の道を進む。[[タマル (グルジア女王)|タマル女王]]のもとで黄金時代を迎える。しかし1世紀で終わりを告げる。[[1226年]]、[[ホラズム・シャー朝]]のスルターン・[[ジャラールッディーン]]の侵攻を受け、[[1236年]]には[[モンゴル]]の統治下に入る。モンゴル支配下のトビリシは自治を享受できた時代であった。[[14世紀]]から[[18世紀]]にかけて、[[ティムール]]や[[タブリーズ]]のシャー、[[白羊朝]]、など入れ替わり来襲を受ける。[[1522年]]、[[サファヴィー朝]]イランの侵攻を受けるも[[ダヴィト5世]]に解放される。この時期は荒廃したトビリシの再建の時代であった。[[1795年]]、イランの[[アーガー・モハンマド・シャー]]の軍勢の前に、トビリシは灰燼に帰す。もはや、イランやトルコの侵攻の前に成す術も持たないグルジアは、[[ロシア帝国]]の庇護を求め、[[1801年]]、[[帝政ロシア]]に編入された。トビリシには総督府が置かれ、[[カフカース]]支配の拠点となった。その間、都市は大きく発展し、ヨーロッパ風の町並みが形成される。[[1811年]]には8500人であった人口は、[[1825年]]には2万人になったという。[[アレクサンドル・プーシキン]]や[[レフ・トルストイ]]が幾たびも訪れ、[[ロマノフ朝]]の王族の屋敷も市内に作られた。[[1918年]]にグルジアが独立した際、トビリシは[[グルジア民主主義共和国]](1918年-1921年)の首都となる。以後、[[グルジア・ソビエト社会主義共和国]]([[1921年]] - [[1922年]]、[[1936年]] - [[1991年]])、[[ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国]]([[1922年]] - [[1936年]])の首都。[[1991年]]にグルジアが再び独立を果たして以後、グルジアの首都である。
[[570年]]以降、[[サーサーン朝]]ペルシアに征服され、[[627年]]のは、[[ビザンティン帝国]]と[[ハザール]]の連合軍に陥落。[[736年]]には[[カリフ]]・[[マルワーン2世]]に率いられた[[ウイマヤ朝]]の軍が進入。以後、[[トビリシ首長国]]として[[アラブ人]]に支配される。[[1068年]]、[[スルターン]]・[[アルプ・アルスラーン]]の下、[[セルジューク朝]]トルコの侵略を受ける。[[1122年]]に、セルジュークトルコとの激しい戦闘に勝利し、[[ダヴィト4世]](ダヴィト建設王)がトビリシを解放してグルジアを統一。西グルジアの[[クタイシ]]からトビリシに遷都し、全グルジアの首都となり王国の領土は拡大し繁栄の道を進む。[[タマル (グルジア女王)|タマル女王]]のもとで黄金時代を迎える。しかし1世紀で終わりを告げる。[[1226年]]、[[ホラズム・シャー朝]]のスルターン・[[ジャラールッディーン]]の侵攻を受け、[[1236年]]には[[モンゴル]]の統治下に入る。モンゴル支配下のトビリシは自治を享受できた時代であった。[[14世紀]]から[[18世紀]]にかけて、[[ティムール]]や[[タブリーズ]]のシャー、[[白羊朝]]、など入れ替わり来襲を受ける。[[1522年]]、[[サファヴィー朝]]イランの侵攻を受けるも[[ダヴィト5世]]に解放される。この時期は荒廃したトビリシの再建の時代であった。[[1795年]]、イランの[[アーガー・モハンマド・シャー]]の軍勢の前に、トビリシは灰燼に帰す。もはや、イランやトルコの侵攻の前に成す術も持たないグルジアは、[[ロシア帝国]]の庇護を求め、[[1801年]]、[[帝政ロシア]]に編入された。トビリシには総督府が置かれ、[[カフカース]]支配の拠点となった。その間、都市は大きく発展し、ヨーロッパ風の町並みが形成される。[[1811年]]には8500人であった人口は、[[1825年]]には2万人になったという。[[アレクサンドル・プーシキン]]や[[レフ・トルストイ]]が幾たびも訪れ、[[ロマノフ朝]]の王族の屋敷も市内に作られた。[[1918年]]にグルジアが独立した際、トビリシは[[グルジア民主主義共和国]](1918年-1921年)の首都となる。以後、[[グルジア・ソビエト社会主義共和国]]([[1921年]] - [[1922年]]、[[1936年]] - [[1991年]])、[[ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国]]([[1922年]] - [[1936年]])の首都。[[1991年]]にグルジアが再び独立を果たして以後、グルジアの首都である。

== 民族構成 ==
[[2002年]]の統計では、
*[[グルジア人]] 84.2%
*[[アルメニア人]] 7.6%
*[[ロシア人]] 3.0%
*[[アゼリー人]] 1.0%
*[[オセット人]] 0.9%
*[[ギリシャ人]] 0.4%
などとなっており、年々グルジア人の割合が高まっている。
住民の85%が、[[キリスト教]]の信者であり、[[グルジア正教会]]を中心に[[ロシア正教会]]、[[アルメニア教会]]を信奉している。[[イスラム教]]は主として[[スンナ派]]で人口の8%、[[ユダヤ教]]の信者は2%である。

== 気候 ==
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== 文化 ==
== 文化 ==
[[1918年]]に創設された[[トビリシ国立大学]]など、多数の高等教育機関や、劇場、博物館、国立オペラ・バレエ劇場などがあり、学術・文化面でも重要な都市である。また、たくさんの古い[[教会]]があるほか、[[モスク]]や[[シナゴーグ]]もある。2つの路線の[[地下鉄]]が走る。郊外に[[トビリシ国際空港]]がある。[[2004年]]には[[至聖三者大聖堂 (トビリシ)|至聖三者大聖堂]](ツミンダ・サメバ大聖堂)が竣工した。
[[1918年]]に創設された[[トビリシ国立大学]]など、多数の高等教育機関や、劇場、博物館、国立オペラ・バレエ劇場などがあり、学術・文化面でも重要な都市である。また、たくさんの古い[[教会]]があるほか、[[モスク]]や[[シナゴーグ]]もある。[[2004年]]には[[至聖三者大聖堂 (トビリシ)|至聖三者大聖堂]](ツミンダ・サメバ大聖堂)が竣工した。

== 交通 ==
2つの路線の[[地下鉄]]が走る。郊外に[[トビリシ国際空港]]がある。


== トビリシ出身の人物 ==
== トビリシ出身の人物 ==

2009年9月2日 (水) 15:11時点における版

座標: 北緯41度41分16秒 東経44度48分31秒 / 北緯41.687778度 東経44.808611度 / 41.687778; 44.808611

トビリシ
თბილისი
トビリシの風景
トビリシの風景
トビリシの市章
市章
位置
の位置図
の位置図
座標 : 北緯41度43分 東経44度47分 / 北緯41.717度 東経44.783度 / 41.717; 44.783
行政
ジョージア (国)の旗 ジョージア
 行政区画 トビリシ首都圏
 市 トビリシ
市長 Giorgi (Gigi) Ugulava
地理
面積  
  市域 726 km2
標高 380-772 m
人口
人口 (2005年現在)
  市域 1,093,000人
    人口密度   1,505.5人/km2(3,899.3人/mi2
  都市圏 1,345,293人
その他
等時帯 UTC+4 (UTC+4)
夏時間 UTC+5 (UTC+5)
公式ウェブサイト : http://www.tbilisi.gov.ge/

トビリシグルジア語: თბილისი, Tbilisi)はグルジア首都。ときにティフリス(Tiflis)とも呼ばれる。元史には梯弗里斯とも呼ばれる。人口は約120万人。

グルジア東部、クラ川の河畔に広がる。三方を山や小高い丘に囲まれている。気候は温暖で、年間の平均気温は13.2℃。年間降水量は505mm。

歴史

すでに4世紀ペルシア史料に、この地域に集落があったことが言及されている。今も市内に一部が残るナリカラ砦はこの頃に造られたものである。その後、5世紀カルトリ王国(イベリア王国とも言われた)の王ワフタング・ゴルガサリ(ワフタング1世)がここに町をつくり、王の死後、息子のダチが遺訓に従い、ムツヘタから遷都した。ワフタング・ゴルガサリ王がこの地を発見したのには、有名な言い伝えが残っている。王が狩に出かけ、鷹を飛ばした。鷹は雉を追いかけて飛んでいったが、鷹も雉も行方不明となった。従者たちが探し回ると鷹も雉も温泉の中に落ちていた。温泉を発見したワフタング・ゴルガサリはそれをとても気に入り、この地に町を作るように命じた、という。グルジア語の古語で"Tpili"とは「暖かい」という意味で、それがトビリシの語源である。

570年以降、サーサーン朝ペルシアに征服され、627年のは、ビザンティン帝国ハザールの連合軍に陥落。736年にはカリフマルワーン2世に率いられたウイマヤ朝の軍が進入。以後、トビリシ首長国としてアラブ人に支配される。1068年スルターンアルプ・アルスラーンの下、セルジューク朝トルコの侵略を受ける。1122年に、セルジュークトルコとの激しい戦闘に勝利し、ダヴィト4世(ダヴィト建設王)がトビリシを解放してグルジアを統一。西グルジアのクタイシからトビリシに遷都し、全グルジアの首都となり王国の領土は拡大し繁栄の道を進む。タマル女王のもとで黄金時代を迎える。しかし1世紀で終わりを告げる。1226年ホラズム・シャー朝のスルターン・ジャラールッディーンの侵攻を受け、1236年にはモンゴルの統治下に入る。モンゴル支配下のトビリシは自治を享受できた時代であった。14世紀から18世紀にかけて、ティムールタブリーズのシャー、白羊朝、など入れ替わり来襲を受ける。1522年サファヴィー朝イランの侵攻を受けるもダヴィト5世に解放される。この時期は荒廃したトビリシの再建の時代であった。1795年、イランのアーガー・モハンマド・シャーの軍勢の前に、トビリシは灰燼に帰す。もはや、イランやトルコの侵攻の前に成す術も持たないグルジアは、ロシア帝国の庇護を求め、1801年帝政ロシアに編入された。トビリシには総督府が置かれ、カフカース支配の拠点となった。その間、都市は大きく発展し、ヨーロッパ風の町並みが形成される。1811年には8500人であった人口は、1825年には2万人になったという。アレクサンドル・プーシキンレフ・トルストイが幾たびも訪れ、ロマノフ朝の王族の屋敷も市内に作られた。1918年にグルジアが独立した際、トビリシはグルジア民主主義共和国(1918年-1921年)の首都となる。以後、グルジア・ソビエト社会主義共和国1921年 - 1922年1936年 - 1991年)、ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国1922年 - 1936年)の首都。1991年にグルジアが再び独立を果たして以後、グルジアの首都である。

民族構成

2002年の統計では、

などとなっており、年々グルジア人の割合が高まっている。 住民の85%が、キリスト教の信者であり、グルジア正教会を中心にロシア正教会アルメニア教会を信奉している。イスラム教は主としてスンナ派で人口の8%、ユダヤ教の信者は2%である。

気候


トビリシの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 19.5
(67.1)
22.4
(72.3)
28.7
(83.7)
34.3
(93.7)
34.9
(94.8)
38.7
(101.7)
40.0
(104)
40.3
(104.5)
37.9
(100.2)
33.3
(91.9)
27.2
(81)
24.0
(75.2)
40.3
(104.5)
平均最高気温 °C°F 6.3
(43.3)
7.1
(44.8)
12.4
(54.3)
19.0
(66.2)
23.0
(73.4)
27.3
(81.1)
30.8
(87.4)
30.4
(86.7)
26.3
(79.3)
19.7
(67.5)
12.9
(55.2)
7.7
(45.9)
18.6
(65.5)
平均最低気温 °C°F −1.9
(28.6)
−1.1
(30)
2.6
(36.7)
8.2
(46.8)
11.8
(53.2)
15.5
(59.9)
19.0
(66.2)
18.2
(64.8)
14.9
(58.8)
9.1
(48.4)
4.1
(39.4)
0.0
(32)
8.4
(47.1)
最低気温記録 °C°F −24.4
(−11.9)
−14.8
(5.4)
−12.8
(9)
−4.8
(23.4)
1.0
(33.8)
6.3
(43.3)
9.3
(48.7)
8.9
(48)
0.8
(33.4)
−6.4
(20.5)
−7.1
(19.2)
−20.5
(−4.9)
−24.4
(−11.9)
降水量 mm (inch) 20
(0.79)
29
(1.14)
31
(1.22)
51
(2.01)
84
(3.31)
84
(3.31)
41
(1.61)
43
(1.69)
35
(1.38)
41
(1.61)
35
(1.38)
23
(0.91)
517
(20.35)
出典:Pogoda.ru.net 8.09.2007

文化

1918年に創設されたトビリシ国立大学など、多数の高等教育機関や、劇場、博物館、国立オペラ・バレエ劇場などがあり、学術・文化面でも重要な都市である。また、たくさんの古い教会があるほか、モスクシナゴーグもある。2004年には至聖三者大聖堂(ツミンダ・サメバ大聖堂)が竣工した。

交通

2つの路線の地下鉄が走る。郊外にトビリシ国際空港がある。

トビリシ出身の人物

姉妹都市

トビリシは以下の都市と姉妹都市の提携をしている:


外部リンク


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