「ローマ帝国時代の服飾」の版間の差分

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2010年9月10日 (金) 17:11時点における版

ローマ帝国時代の服飾とは、紀元前753年から紀元後395年までの、かつてのローマ帝国版図内にあたる地域での服装を指す。

特徴

ローマ王国時代ではウールが最も中心的な衣服の材料であった。 男女の服装に大きな違いはなく、共にトゥニカという簡素なチュニックの上にトガという一枚布を体に巻きつけ着付けるものであった。 後にトガは徐々に長大化・複雑化していき、女性はギリシア風の衣装を採用するようになった。 ローマの服装の最大の特徴は、身分標識としての衣類の発展が著しいことである。 公服であるトガの着付け方や色彩は厳しく規定されており、日常生活ではもともと内衣兼部屋着であったトゥニカとさまざまな外套が主な衣服となった。 紀元前三世紀ごろからダルマチア地方の民族服が広くキリスト教徒を中心に着られ、キリスト教の国教化と共に公服となった。

髪は男子は短く刈り込み、女子は長く伸ばしてギリシア婦人のように結いあげていた。 ギリシア人は愛と美の女神を美しい金髪と想像していたが、ローマ人も波打つ金髪の女神のイメージを引き継いだ。 ローマでは身分の上下を問わず婦人たちは髪の脱色に励み、ローマの美容師は髪の脱色も得意としていた。 ゲルマン人の生まれながらの金髪を使った鬘は大変人気があった。 マルティリアスはガラという女性を風刺して全身が嘘だらけと評したが、「お前の髪はラインの川辺で伸びたもの」と歌っており、ローマ婦人のガラがゲルマン女性の髪で作った金髪の鬘をかぶっていることがわかる。 一方濃い赤色の髪も人気があり、ヘンナなどを使って毛染めをした。

靴はくつろいだ場面ではギリシアと同様のサンダル(ソレア)だが、下位の兵士や農作業時にはギリシア風の深靴やペロというズック靴をはいた。 正装用の靴はカルケウスといい、四本の組みひもで足の甲を固定するもので、これは市民だけが履くことができた。 軍用長靴であるカンパグスは、軍隊と皇帝が強く結び付いてからは皇帝の履物ともなっていた。 女性はソックルといって踵を留めないサンダル状の靴を履いた。

装飾品は現代使われているほぼすべての種類が制作されており、紀元前215年は女性に向けて奢侈禁止令が出たほどであった。 婚約指輪の風習が生まれたのもローマだが、意志の固さを表すためか鉄製であった。

男子の衣装

古代ローマの男性は、はじめ長方形もしくは半円形のウール布を体に巻きつけていた。 これは、女性や子供も同じであったようで、トガの原型であった。 トガは徐々に身分標識として複雑化して、トゥニカが日常着となった。

一般庶民

庶民の男性は、正装として腿丈のトゥニカの上から無地無染色のトガを着た。 トガを着つけるのは非常に煩わしかったので、紀元前1世紀ごろから日常ではトゥニカを二枚重ね着したり、ギリシア風外套を着るのが普通になっていた。 トゥニカはギリシアのキトンから発展したもので、五分袖から七分袖程度の袖が付き、膝下丈か労働時にはベルトでたくしあげて膝上丈で着た。 袖や裾が長いものは柔弱だと言って嫌われた。 パルリウムというヒマティオンから発展した外套が広くつかわれた。 他に、ガリア人から取り込んだサグムやパルダメントゥムという肩で留めるマント、ラケルナという前で留めるマント、ペヌラというフードをつけられることもあった冬用のケープなども用いられた。 染料として藍と茜は容易に手に入り、トゥニカは色つきのものが多かった。

帝政の初めごろにゲルマン人の民族服に由来するブラカエというウールのズボンが伝えられた。 ゲルマン人にとっては寒い気候や危険な湿地から体を守るために必要な長ズボンだったが、ローマ人には野卑な服装に見えたらしく、股引のように半ズボンに仕立てて防寒用としてこっそりと身に着けていた。

貧しい自由市民は2世紀の初めごろから流入した、ダルマティカという長袖の粗末なチュニックを身に付けた。 3世紀ごろにはキリスト教徒のユニフォームのようになり、4世紀にいたって第一礼装として完全にトガを駆逐した。

外套を留めるために使われたフィブラというピンブローチは、ギリシアの青銅製の実用一辺倒のものと違って、エナメルや七宝が施されてファッション性が増した。 また、禿げた頭を気にして鬘をかぶることもあった。

上流階級

やはりトゥニカの上から無染色無地のトガを着たのだが、官職にあるものは赤い縁がついていた。 トガよりもトゥニカや晩餐専用の部屋着のほうが刺繍などを施して豪華で色彩豊かであった。

女子の衣装

女子の衣服や髪型はほとんどギリシアの写しであった。

一般庶民

女性は家庭を守るのが美徳であり、既婚女性は踵丈のチュニックを日常着としていたが、未婚の女性はやや短い丈のものも着ることがあった。 下着としてタエニアという胸帯を身に付け、ゾーナと言う胸下から下腹を覆う帯を巻き、袖のない膝丈のチュニックの上からカスチュラというアンダースカートをはいて上着のチュニックを着た。 庶民の女性も名門の女性も、キトンそのままのチュニック型衣装をストラと呼んで身に着けていた。 ストラは「廉恥のストラ」とも呼ばれて、姦通者や売春婦には着ることが許されていなかった。 外套としてパルラというヒマティオンとほぼ同じ一枚布を身に着けていた。 娼婦たちは透ける衣服を着て、宝石の付いた小さな飾りリボンを膝の上に縛って客を興奮させた。

貧しい自由市民の女性は2世紀の初めごろから流入した、ダルマティカという長袖の粗末なチュニックを身に付けた。 女性のものは男性より丈が長く、踝丈であった。 キリスト教徒の女性はつつましさを表すためにヴェールで髪を覆うことを好んだ。 3世紀ごろにはキリスト教徒のユニフォームのようになり、4世紀にいたって第一礼装として完全にトガを駆逐した。

上流階級

古代ローマ女性は色白の肌を保つために気を使い、名門の家では二百人近い女奴隷に化粧やマッサージや髪結いを担当させていた。 肌を白くするロバの乳で顔を洗い、安価なチョークのお白粉ではなく高価な鉛お白粉を使い、外出時にはヴェールのほかに日傘も使った。 髪を脱色するためにハトの糞や、ブナの木の灰、かなり髪を傷めるがミョウバンや石灰を酢で溶いたものを髪に塗ることもあった。 ローマ女性は鏝などで髪を巻いてボリュームを出すことも好んでおり、ヘアスタイルはオウィディウスをして「ミツバチの数より多い」と言わしめるほどだった。 ただし、少なくとも既婚婦人は髪をきちんと結いあげることが求められていた。 髪飾りとして花や宝石の他に、ギリシアのステファニというティアラのような飾りを好んだ。

結婚式の衣装は、下着のチュニックの腰にキンブルムという帯を二つ結び目を作って固く結び、サフラン色のチュニックとサンダルを身につけ、フランメウムという深紅のヴェールと花冠、ネックレスを身に付けた。

参考文献

  • 丹野郁 編『西洋服飾史 増訂版』東京堂出版 ISBN 4-49020367-5
  • 千村典生『ファッションの歴史』鎌倉書房 ISBN 4-308-00547-7
  • 深井晃子監修『カラー版世界服飾史』美術出版社ISBN 4-568-40042-2
  • リチャード・コーソン 著『メークアップの歴史 西洋化粧文化の流れ』ポーラ文化研究所 ISBN 4-938547-03-1
  • 青木英夫『下着の流行史』雄山閣 ISBN 4-639-01020-6