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2013年3月7日 (木) 17:31時点における版

塚田 茂(つかだ しげる、1926年3月9日 - 2008年5月13日)は、日本演出家放送作家構成作家作詞家タレント東京府東京市(現・東京都特別区)出身。血液型:B。

経歴・人物

1945年東宝に入社、帝国劇場に所属。その後、日本劇場演劇部で舞台演出家として活躍。

1955年、「ガラクタ狂想曲」(NHK)で、放送作家としてテレビ界に進出。以後、「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)、「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)、「8時だョ!全員集合」(TBS)、「お笑いオンステージ」(NHK)など、日本のテレビ番組史上に残る数多くの名番組の立ち上げに参加。年末恒例の「NHK紅白歌合戦」の構成にもテレビ中継が初めて行われた第4回(1953年)に会場であった日劇の舞台係として番組に参加したのを皮切りに、第16回(1965年)から第37回(1986年)まで(但し、1977年・第28回紅白の構成・演出方法につき、当時の紅白プロデューサー・増子正利と意見が対立したことから、1980年・第31回紅白までの3回については制作に参加していない)番組の主要ブレーンとして参加した。

1970年代初頭に放送作家の養成を目的として「スタッフ東京」を設立し、高田文夫玉井貴代志松岡孝らを育成した(1980年代以降は、高田・玉井ら「スタッフ東京」の有望な若手作家陣に現場での大半の構成を任せ、自らは総合監修的立場で弟子の考案した構成・演出方針に最終的な修正・決定を下すという役割で番組製作に関わっていた)。

塚田は自身が担当する番組の企画会議の席上に必ずといっていいほど高田や玉井ら有望な弟子を帯同させ、そこで自身が述べたことをメモに書きとめさせ、それを元に自身で台本を作り上げるように指示するなど、厳しく弟子たちを指導・教育した。その甲斐もあって、1970年代の終盤に入った頃には、これらの弟子たちは塚田からの全幅の信頼を寄せられる存在となり、「夜ヒット」など主要担当番組にも塚田は自身の代わりに現場の指揮に当たらせるようになった。これらの経験を糧として、1980年代に入って早々には高田は「オレたちひょうきん族」など、玉井は「なるほど!ザ・ワールド」などの構成で、30代前半にして、早くも人気放送作家の仲間入りを果たすこととなった。

また、放送作家のみならずタレントとしても活動。1970年代前半の夜ヒットには「元祖出たがり構成作家」を標榜して「歌謡ドラマ」などのコーナーにコメディリリーフ扱いで頻繁に顔を出しており、男性司会者が休暇を取って番組に穴を開けるときには代打司会者として芳村真理とのペアで司会を行ったことも何度かある。夜ヒット司会で盟友でもある前田武彦により、同番組で「ドンドンクジラ」というニックネームが付けられた。この頃にはポリドールから歌手として、コミックソング「涙になりました」のリリースも行っている。

1990年代初頭にテレビ番組の製作の一線からは引退。「横浜・八景島シーパラダイス」などの各地のレジャー施設・行事におけるイベントの企画・構成に活躍の場を移していた。

2008年5月13日脳梗塞(こうそく)のため東京都内の病院で死去した。82歳。

主な出演番組

主な構成演出番組

主な作詞

主な著作

  • 「どんどんクジラの笑劇人生―人気番組で綴るテレビバラエティ史」(河出書房新社、1991年)

関連人物

シャボン玉ホリデー」などテレビ創世記の名番組の多くに、共に主要な番組ブレーンの一員として参加。その中で堅い盟友関係を築き、その縁で「お昼のゴールデンショー」や「夜のヒットスタジオ」の初代司会に抜擢された。
「シャボン玉ホリデー」「8時だョ!出発進行」などのメインキャスト。彼らとの出会いがきっかけとなり、塚田は後に渡辺プロダクションと強いパイプを築くこととなった。
無名時代から塚田は三波率いる「てんぷくトリオ」を、演芸界の次世代を担いうる逸材として高く評価し、自身の担当する番組に彼らを積極的に起用し、人気上昇の道筋を作った。この縁からソロ活動が主となった後も三波は「夜ヒット」や「スターどっきり(秘)報告」などの塚田の代表的な担当番組の多くに司会として抜擢されている。
1956年、塚田は三橋を日劇のワンマンショーの看板として抜擢。当時の日劇のワンマンショーといえば戦前・戦中から活躍している大物のベテラン歌手の独擅場で、当時既に別格の存在として扱われていた美空ひばりを除き、総じて戦後派の歌手が入り込む余地がなかったところに、当時、歌謡曲歌手としてデビューしてまだ2年足らずの三橋を起用したことは、日劇の歴史上でも、また戦前派から戦後派へと歌謡界の主役の世代交代が急速に加速する契機を与えたという意味において、歌謡史上においても画期的な出来事であった。
文化放送退職後、程なくのときに上記の「三橋美智也ショー」の司会進行に抜擢される。このときの司会ぶりから、1958年からは塚田が主要ブレーンを務める「ロッテ 歌のアルバム」の司会にも起用されることとなった。
1966年、塚田は「小川宏ショー」の2代目ホステス役に当時女優として活動していた芳村を起用。これを機に芳村は女優業を完全に廃業し、以後は司会・放送タレント業一本に絞って芸能活動を展開することとなった。その後も「夜ヒット」を初め、「ラブラブショー」「かくし芸大会」「FNS歌謡祭」など塚田の代表作の多くで司会に起用された。
8時だョ!全員集合」のメインキャスト。とりわけリーダー・いかりや長介とは兄弟分のような間柄であり、コントの内容や番組の演出手法で幾たびも塚田といかりやは衝突を繰り返しながらも、その度に強固な信頼関係を確立。視聴率50%を超えるお化け番組への発展の土壌構築に大きく貢献した。
1968年2月の日劇公演「西田佐知子ショー」での好演ぶりを買って、金曜の担当プロデューサーだった常田久仁子へ塚田が推薦するという形で「お昼のゴールデンショー」レギュラーに起用したところ、瞬く間に人気沸騰。「てんぷくトリオ」と同様、コント55号にとっても塚田は「恩人」ともいえる存在であった。後に萩本は「オールスター家族対抗歌合戦」の司会に単独で抜擢され、この番組でのゲストの家族とのやり取りを通じて、後の自身の主演番組の多くで見られた「素人いじり」の技術を身に付けていった。

エピソード

  • タレントとしても活動していた頃、東京12チャンネルボウリング番組の司会に抜擢されたことがあり、その時に、渡辺プロから歌手デビュー前のある新人をアシスタントとしてキャスティングされた。しかし、そのアシスタントは強度の近眼とキャリア不足のため、フロアディレクターのサインを解読できず、番組がスタートして早々に降板させられた。その後、とある歌謡番組の打ち合わせで渡辺プロの関係者から「今度デビューする新人です。よろしくお願いします」とあいさつされた際、その紹介された新人歌手がその時のアシスタントであったことに気づく。その新人歌手は小柳ルミ子であった。その際、彼女のデビュー曲「わたしの城下町」のデモテープを渡され、後に試聴したところ、小柳のあまりの新人離れした歌唱力に塚田は圧倒されたという。
  • 夜のヒットスタジオ」の構成を依頼された際、初代プロデューサー・伊藤昭から、「(視聴率を)10%採ればいい。これでいい正月が過ごせるじゃない。頼むよ」と半ば強引なオファーを受け、泣く泣く引き受けざるをえなくなってしまったという。
  • 「スタッフ東京」の設立経緯につき、塚田は著書の中で「当時、放送作家の絶対数不足を感じていたからだ」と語っている。当時のテレビ業界では、テレビ局の製作ブレーンが絶対的な存在であり、放送作家はそのブレーンが本来すべき「構成」の仕事を「代行」しているにすぎないという実態があり、その関係から1回の仕事で得るギャランティーもきわめて少額(特にバラエティー番組に関してはドラマ番組の演出で受けるギャラを10として、最大でもその7割程度しかギャラが支払われなかったという)であったことから、「放送作家」を「代行業」ではなく、一端のれっきとした「職業」としたいという想いを塚田が兼々抱いていたことが、同社の設立に繋がったという。