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'''和同開珎'''(わどうかいちん、わどうかいほう)は、[[708年]]([[和銅]]元年)に、[[日本]]で鋳造・発行された[[銭貨]]である。日本で最初の[[流通貨幣]]と言われる。[[皇朝十二銭]]の第1番目にあたる。
'''和同開珎'''(わどうかいちん、わどうかいほう)は、[[708年]]([[和銅]]元年)に、[[日本]]で鋳造・発行された[[銭貨]]である。日本で最初の[[流通貨幣]]と言われる。[[皇朝十二銭]]の第1番目にあたる。


== 概要 ==
僕にとって和同開珎とはつまりちんちんだ
直径24[[ミリメートル|mm]]前後の円形で、中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。表面には、時計回りに[[和同開珎]]と表記されている。裏は無紋である。形式は、[[621年]]に発行された[[唐]]の[[開元通宝]]を模したもので、書体も同じである。律令政府が定めた通貨単位である1[[文 (通貨単位)|文]]として通用した。当初は1文で[[米]]2[[キログラム|kg]]が買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされる。

現在の[[埼玉県]][[秩父市]]黒谷にある[[和銅遺跡]]から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない[[自然銅]])が産出した事を記念して、「[[和銅]]」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。唐に倣い、[[貨幣]]制度を整えるため、また、ちょうど[[平城京]][[遷都]]の直前だったため、遷都の経費を、銅地金と貨幣価値との差額で補う目的もあった。

[[画像:Wadogin.jpg|thumb|right|200px|和同開珎銀銭]]

708年5月には[[銀貨|銀銭]]が発行され、7月には[[銅貨|銅銭]]の鋳造が始まり、8月に発行されたことが[[続日本紀]]に記されている。しかし、銀銭は翌年8月に廃止された。和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられる。古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭または試作品であるとする説がある。古和同と新和同は成分が異なり、古和同はほぼ純銅である。また両者は書体も異なる。古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、新和同は大量に流通し、出土数も多い。ただし、現在、古銭収集目的で取引されている和銅銭には贋作が多いので注意を要する。

当時の日本はまだ米や[[布]]を基準とした物々交換の段階であり、和同開珎は、貨幣としては[[畿内]]とその周辺を除いてあまり流通しなかったとされる。また、銅鉱一つ発見されただけで[[元号]]を改めるほどの国家的事件と捉えられていた当時において大量の銅原料を確保する事は困難であり、流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。それでも地方では、富と権力を象徴する宝物として使われた。発見地は全国各地に及んでおり、[[渤海 (国)|渤海]]の遺跡など、海外からも和同開珎が発見されている。

発行はしたものの、通貨というものになじみのない当時の人々の間でなかなか流通しなかったため、政府は流通を促進するために税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費としてお金を渡すなど様々な手を打ち、[[711年]](和銅4年)には[[蓄銭叙位令]]が発布された。これは、従六位以下のものが十貫(1万枚)以上蓄銭した場合には位を1階、二十貫以上の場合には2階進めるというものである。しかし、流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため、[[800年]]([[延暦]]19年)に廃止された。

政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から、民間で勝手に発行された[[私鋳銭]]の横行や貨幣価値の下落が起きた。これに対し律令政府は、蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪とした。しかし、私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった。[[760年]]([[天平宝字]]4年)には[[万年通宝]]が発行され、和同開珎10枚と万年通宝1枚の価値が同じものと定められた。しかし、形も重量もほぼ同じ銭貨を極端に異なる価値として位置づけたため、借金の返済時などの混乱が続いた。[[神功開宝]]発行の後、[[779年]]([[宝亀]]10年)に和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭は、同一価を持つものとされ、以後通貨として混用された。


== 読み方 ==
== 読み方 ==

2015年12月18日 (金) 00:48時点における版

和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)は、708年和銅元年)に、日本で鋳造・発行された銭貨である。日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の第1番目にあたる。

概要

直径24mm前後の円形で、中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。表面には、時計回りに和同開珎と表記されている。裏は無紋である。形式は、621年に発行された開元通宝を模したもので、書体も同じである。律令政府が定めた通貨単位である1として通用した。当初は1文で2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされる。

現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。唐に倣い、貨幣制度を整えるため、また、ちょうど平城京遷都の直前だったため、遷都の経費を、銅地金と貨幣価値との差額で補う目的もあった。

和同開珎銀銭

708年5月には銀銭が発行され、7月には銅銭の鋳造が始まり、8月に発行されたことが続日本紀に記されている。しかし、銀銭は翌年8月に廃止された。和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられる。古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭または試作品であるとする説がある。古和同と新和同は成分が異なり、古和同はほぼ純銅である。また両者は書体も異なる。古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、新和同は大量に流通し、出土数も多い。ただし、現在、古銭収集目的で取引されている和銅銭には贋作が多いので注意を要する。

当時の日本はまだ米やを基準とした物々交換の段階であり、和同開珎は、貨幣としては畿内とその周辺を除いてあまり流通しなかったとされる。また、銅鉱一つ発見されただけで元号を改めるほどの国家的事件と捉えられていた当時において大量の銅原料を確保する事は困難であり、流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。それでも地方では、富と権力を象徴する宝物として使われた。発見地は全国各地に及んでおり、渤海の遺跡など、海外からも和同開珎が発見されている。

発行はしたものの、通貨というものになじみのない当時の人々の間でなかなか流通しなかったため、政府は流通を促進するために税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費としてお金を渡すなど様々な手を打ち、711年(和銅4年)には蓄銭叙位令が発布された。これは、従六位以下のものが十貫(1万枚)以上蓄銭した場合には位を1階、二十貫以上の場合には2階進めるというものである。しかし、流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため、800年延暦19年)に廃止された。

政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から、民間で勝手に発行された私鋳銭の横行や貨幣価値の下落が起きた。これに対し律令政府は、蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪とした。しかし、私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった。760年天平宝字4年)には万年通宝が発行され、和同開珎10枚と万年通宝1枚の価値が同じものと定められた。しかし、形も重量もほぼ同じ銭貨を極端に異なる価値として位置づけたため、借金の返済時などの混乱が続いた。神功開宝発行の後、779年宝亀10年)に和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭は、同一価を持つものとされ、以後通貨として混用された。

読み方

和同開珎の「珎」の字は、開元通寶などの銭貨の語尾が「寶」であることを理由に、「寶」の異体字である「寳」の略字であると考え、「わどうかいほう」と読むとする説が主流となった[1]。それに対し、「珎」は「珍」の異体字であり、和同開珎は「わどうかいちん」と読むという説もあり[1]江戸時代から150年以上論争が続いてきた。こうした中で、栄原永遠男は史料調査によって、「寳」や「寶」が「珎」と略記された例が存在しないこと、「珎」を「ほう」と発音した例が存在しないことを示した[2]。これらにより、和同開珎を「わどうかいほう」と読むとする説は棄却されることとなった[2]。また以前には、『日本書紀』の683年天武天皇12年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」との記述があることなどから、和同開珎の「和同」を元号の「和銅」とは無関係でその発行を天武天皇の時代まで遡るとする学説もあったが、後述の富本銭の大量発見によってこの説はほぼ否定されている。そもそも、この通貨のモデルである唐の開元通宝は文字を上下右左の順に読むため、上右下左の順に読む「和同開珎」という読み方が正しいかどうかについても疑問が投げかけられている[3]

和同開珎以前に存在した貨幣

和同開珎以前に存在した貨幣として、無文銀銭富本銭が知られている。1999年1月19日には、奈良県明日香村から大量の富本銭が発見され、最古の貨幣は和同開珎という定説が覆る、教科書が書き換えられるなどと大きく報道された。しかし、これらは広い範囲には流通しなかったと考えられ、また、通貨として流通したかということ自体に疑問も投げかけられている。現在の所、和同開珎は、確実に広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣であるとされている。

関連項目

参考文献

  • 「和同開珎の発行」『日本の美術』第512号 出土銭貨、至文堂、2009年1月10日、ISBN 9784784335121 

脚注

  1. ^ a b 至文堂 2009, p. 36.
  2. ^ a b 至文堂 2009, p. 38.
  3. ^ 歴史の謎を探る会編『学校で習った日本史が信じられなくなる本』夢文庫(2010)p.88。

外部リンク