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「近藤準平」の版間の差分

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静岡県選出の衆議院議員
 
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[[File:Kondo Renpei (1841-1900).jpg|thumb|200px|近藤準平]]
'''近藤 準平'''(こんどう じゅんぺい、[[1841年]]([[天保]]12年[[6月 (旧暦)|6月]]{{sfn|衆議院、参議院 編|1962|loc=203頁|ref=70th-11}}{{sfn|上田ほか|2001|loc=800頁|ref=jinmei}}) - [[1900年]]([[明治]]33年)[[8月4日]]{{sfn|衆議院、参議院 編|1962|loc=203頁|ref=70th-11}}{{sfn|上田ほか|2001|loc=800頁|ref=jinmei}})は、[[明治]]時代の[[政治家]]。[[内務省 (日本)|内務]][[官僚]]。[[衆議院|衆議院議員]](1期)。
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2020年1月29日 (水) 14:44時点における版

ファイル:Kondo Renpei (1841-1900).jpg
近藤準平

近藤 準平(こんどう じゅんぺい、1841年天保12年6月[1][2]) - 1900年明治33年)8月4日[1][2])は、明治時代の政治家内務官僚衆議院議員(1期)。

経歴

浜松藩・近藤大三郎の嫡子として[3]遠江浜松藩領長上郡、のちの有玉村静岡県浜名郡有玉村、積志村を経て現浜松市東区)に生まれる[4][注 1]岡崎藩儒官となり文学を教えたのち帰郷し、小学校の教員となる[4]1874年(明治7年)内務省に出仕し、千葉県少属となり、1877年(明治10年)帰郷し、副区長、区長、大区会議員などを経て、1879年(明治12年)静岡県会議員に当選[4]。同副議長を務めた[1][4]

同年、演説結社浜松己卯社を立ち上げ同社長となり、さらに藤枝に扶桑社を創立し議長となり民権思想の普及に努めたが、同年末には再び官吏となり静岡県に奉職した[4]1881年(明治14年)志太益津郡長1886年(明治19年)引佐麁玉郡長を歴任した[4]1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では静岡県第6区から出馬し当選[1]議員集会所に所属し衆議院議員を1期務めた[1]。のち周智小笠郡長を務めた[4]

脚注

注釈

  1. ^ 『明治新立志編』279頁によると生地は武蔵国江戸鉄砲洲。

出典

参考文献

  • 篠田正作 編『明治新立志編』鍾美堂、1891年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778813 
  • 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3000139 
  • 静岡新聞社出版局 編『静岡県歴史人物事典』静岡新聞社、1991年。ISBN 4783804249 
  • 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496