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[[江戸時代]]中期に[[日野弘資]]の二男[[外山光顕]]を初代として成立した新しい[[日野家]]の分家。本家の[[日野家]]と同様に[[名家 (公家)|名家]]の[[家格#公家の家格|家格]]。外山家から[[公卿]]になった者は5名あり、[[大納言|権大納言]]1名、[[中納言|権中納言]]2名、[[非参議]]2名となっている。[[禄|家禄]]は[[蔵米|御蔵米]]30[[石高|石]]。[[菩提寺]]は[[京都府]][[京都市]][[左京区]]岩倉にある[[妙満寺]]内の成就院。左京区法皇寺町の[[要法寺]]にも墓があり、[[塔頭]]の本地院が管理。 |
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初代光顕の次男[[長澤資親]]は[[徳川綱吉]]に召し出され、[[高家 (江戸時代)|高家]][[長澤氏]]の初代となっている。 |
初代光顕の次男[[長澤資親]]は[[徳川綱吉]]に召し出され、[[高家 (江戸時代)|高家]][[長澤氏]]の初代となっている。 |
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八代当主[[外山光輔|光輔]]の代に[[明治維新]]を迎え、明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と[[大名]]家が統合されて[[華族]]制度が誕生すると外山家も公家として華族に列したが{{sfn|浅見雅男|1994|p=24}}{{sfn|小田部雄次|2006|p=13-14}}、光輔は[[愛宕通旭|通旭]]とともに政府高官の洋風化に反対してクーデターを計画したが露見して切腹を命じられた([[二卿事件]])。息子の[[外山光とも|光曁]]が九代当主を継ぎ、明治17年(1884年)7月7日の[[華族令]]の施行で華族が五爵制になると、同8日に[[大納言]]直任の例がない旧[[堂上家]]{{efn2|中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた{{sfn|浅見雅男|1994|p=118}}。}}として[[子爵]]に叙された{{sfn|小田部雄次|2006|p=338}}。 |
八代当主[[外山光輔|光輔]]の代に[[明治維新]]を迎え、明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と[[大名]]家が統合されて[[華族]]制度が誕生すると外山家も公家として華族に列したが{{sfn|浅見雅男|1994|p=24}}{{sfn|小田部雄次|2006|p=13-14}}、光輔は[[愛宕通旭|通旭]]とともに政府高官の洋風化に反対してクーデターを計画したが露見して切腹を命じられた([[二卿事件]])。息子の[[外山光とも|光曁]]が九代当主を継ぎ、明治17年(1884年)7月7日の[[華族令]]の施行で華族が五爵制になると、同8日に[[大納言]]直任の例がない旧[[堂上家]]{{efn2|中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた{{sfn|浅見雅男|1994|p=118}}。}}として[[子爵]]に叙された{{sfn|小田部雄次|2006|p=338}}。 |
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第十代当主は[[外山光庸]](とやまみつつね、1874年 - 1919年)、豊岡健資の三男であり豊岡圭資の兄。[[学習院高等科]]卒。1885年(明治18年)9月、先代・光曁の養子となり家督を相続。身体が弱かった為、気候の良い[[伊豆大島]]で長く暮らした<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/11579194/1/617 『華族畫報』] p.1056 華族畫報社、1913年10月</ref>。第十一代の[[外山英資]](とやまひですけ、1907年11月生)は豊岡健資の四男である[[豊岡圭資]]の次男。伯父に当たる光庸の養子となり外山家を継いだ。1924年(大正13年)時点で住まいは京都市外西加茂の豊岡子爵家方となっている。英資の妹にあたる道子(1916年11月生)は光庸と下村マツとの庶子で、[[学習院女子中・高等科|学習院女子部]]を出たのち京都の呉服商・八木清一{{efn2|妻・千代の兄、安田耕之助と共に[[円山公園 (京都府)|円山公園]]音楽堂を寄付した呉服商「水清」八木清八の長男。米国シンシナティ大学卒。{{sfn|人事|1940|p=ヤ4}}}}(1905年5月生)に嫁いだ。 |
第十代当主は[[外山光庸]](とやまみつつね、1874年 - 1919年)、豊岡健資の三男であり豊岡圭資の兄。[[学習院高等科]]卒。1885年(明治18年)9月、先代・光曁の養子となり家督を相続。身体が弱かった為、気候の良い[[伊豆大島]]で長く暮らした<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/11579194/1/617 『華族畫報』] p.1056 華族畫報社、1913年10月</ref>。第十一代の[[外山英資]](とやまひですけ、1907年11月生)は豊岡健資の四男である[[豊岡圭資]]の次男。伯父に当たる光庸の養子となり外山家を継いだ。1924年(大正13年)時点で住まいは京都市外西加茂の豊岡子爵家方となっている。英資の義理の妹にあたる道子(1916年11月生)は光庸と下村マツとの庶子で、[[学習院女子中・高等科|学習院女子部]]を出たのち京都の呉服商・八木清一{{efn2|妻・千代の兄、安田耕之助と共に[[円山公園 (京都府)|円山公園]]音楽堂を寄付した呉服商「水清」八木清八の長男。米国シンシナティ大学卒。{{sfn|人事|1940|p=ヤ4}}}}(1905年5月生)に嫁いだ。 |
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華族名簿によると英資は1929年に四谷区<ref>外山英資『華族名簿』昭和4年5月31日調</ref>、1932年に赤坂区<ref>外山英資『華族名簿』昭和7年5月20日調</ref>と東京住まいであり、ここで20代を過ごしたのち1940年(昭和15年)までに[[京都市]](上京区紫野西桃本町{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=427}})に移っている。1943年(昭和18年)には妻・なほ子{{efn2|釜石に日本初の民間製鉄所を創り近代製鉄の礎を築いた[[田中長兵衛 (2代目)|田中長兵衛]]の孫。}}(1915年1月生)と共に京都市東山区<ref>外山英資『華族名簿』昭和18年7月1日現在</ref>で暮らしており二児を授かる。1942年前後から[[三光汽船]]で勤務<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/2997935/1/73 『人事興信録 第15版 下』] ト之部 p.3 人事興信所、1948年</ref>。[[第二次世界大戦|第二次大戦]]後の混乱期に英資が若くして亡くなると、なほ子は嫡子と共に実家である東京の[[田中長一郎|田中家]]に身を寄せた。 |
華族名簿によると英資は1929年に四谷区<ref>外山英資『華族名簿』昭和4年5月31日調</ref>、1932年に赤坂区<ref>外山英資『華族名簿』昭和7年5月20日調</ref>と東京住まいであり、ここで20代を過ごしたのち1940年(昭和15年)までに[[京都市]](上京区紫野西桃本町{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=427}})に移っている。1943年(昭和18年)には妻・なほ子{{efn2|釜石に日本初の民間製鉄所を創り近代製鉄の礎を築いた[[田中長兵衛 (2代目)|田中長兵衛]]の孫。}}(1915年1月生)と共に京都市東山区<ref>外山英資『華族名簿』昭和18年7月1日現在</ref>で暮らしており二児を授かる。1942年前後から[[三光汽船]]で勤務<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/2997935/1/73 『人事興信録 第15版 下』] ト之部 p.3 人事興信所、1948年</ref>。[[第二次世界大戦|第二次大戦]]後の混乱期に英資が若くして亡くなると、なほ子は嫡子と共に実家である東京の[[田中長一郎|田中家]]に身を寄せた。 |
2023年8月27日 (日) 13:13時点における最新版
外山家 | |
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本姓 | 藤原北家日野流庶流 |
家祖 | 外山光顕 |
種別 |
公家(名家) 華族(子爵) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 |
山城国 京都市上京区 |
著名な人物 | 外山光輔 |
支流、分家 | 長澤氏(武家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
外山家(とやまけ)は、藤原北家日野家の支流である公家・華族の家。公家としての家格は名家、華族としての家格は子爵家[1]。家紋は鶴丸。
歴史[編集]
江戸時代中期に日野弘資の二男外山光顕を初代として成立した新しい日野家の分家。本家の日野家と同様に名家の家格。外山家から公卿になった者は5名あり、権大納言1名、権中納言2名、非参議2名となっている。家禄は御蔵米30石。菩提寺は京都府京都市左京区岩倉にある妙満寺内の成就院。左京区法皇寺町の要法寺にも墓があり、塔頭の本地院が管理。
初代光顕の次男長澤資親は徳川綱吉に召し出され、高家長澤氏の初代となっている。
五代当主の光実は日野家一門の烏丸家からの養子。また光実の養女補子(町資補の娘)は水戸藩主徳川斉昭の生母。外山家からは同じ日野家の分流である北小路家と豊岡家に養子を出している。
八代当主光輔の代に明治維新を迎え、明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると外山家も公家として華族に列したが[2][3]、光輔は通旭とともに政府高官の洋風化に反対してクーデターを計画したが露見して切腹を命じられた(二卿事件)。息子の光曁が九代当主を継ぎ、明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注 1]として子爵に叙された[5]。
第十代当主は外山光庸(とやまみつつね、1874年 - 1919年)、豊岡健資の三男であり豊岡圭資の兄。学習院高等科卒。1885年(明治18年)9月、先代・光曁の養子となり家督を相続。身体が弱かった為、気候の良い伊豆大島で長く暮らした[6]。第十一代の外山英資(とやまひですけ、1907年11月生)は豊岡健資の四男である豊岡圭資の次男。伯父に当たる光庸の養子となり外山家を継いだ。1924年(大正13年)時点で住まいは京都市外西加茂の豊岡子爵家方となっている。英資の義理の妹にあたる道子(1916年11月生)は光庸と下村マツとの庶子で、学習院女子部を出たのち京都の呉服商・八木清一[注 2](1905年5月生)に嫁いだ。
華族名簿によると英資は1929年に四谷区[8]、1932年に赤坂区[9]と東京住まいであり、ここで20代を過ごしたのち1940年(昭和15年)までに京都市(上京区紫野西桃本町[10])に移っている。1943年(昭和18年)には妻・なほ子[注 3](1915年1月生)と共に京都市東山区[11]で暮らしており二児を授かる。1942年前後から三光汽船で勤務[12]。第二次大戦後の混乱期に英資が若くして亡くなると、なほ子は嫡子と共に実家である東京の田中家に身を寄せた。
系譜[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 小田部雄次 2006, p. 334.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 338.
- ^ 『華族畫報』 p.1056 華族畫報社、1913年10月
- ^ 人事 1940, p. ヤ4.
- ^ 外山英資『華族名簿』昭和4年5月31日調
- ^ 外山英資『華族名簿』昭和7年5月20日調
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 427.
- ^ 外山英資『華族名簿』昭和18年7月1日現在
- ^ 『人事興信録 第15版 下』 ト之部 p.3 人事興信所、1948年
参考文献[編集]
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 人事興信所 編『人事興信録 第12版下』人事興信所、1940年。doi:10.11501/3430446。