津村重舎 (二代目)

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二代目 津村重舎(つむら じゅうしゃ、1908年9月5日-1997年7月12日)は、日本の実業家東京都出身。株式会社津村順天堂(現 株式会社ツムラ)の二代目社長。漢方の復権に尽力した。幼名は基太郎。

人物

1874年発布の「医制」以後、日本の医療は西洋医学中心となり漢方医学・東洋医学は凋落していたが、1957年10月、二代目重舎は自社ビル(中将湯ビル)の一部を漢方診療所(現金匱会診療所)とし、大塚敬節を中心として小出弥生藤平健伊藤清夫相見三郎山田光胤大塚恭男ら著名な漢方医を迎え入れる[1]。翌年その診療所は医療法人としての認可を受け、二代目重舎が理事長となるが、日本で漢方診療施設が法人認可されるのは初であった。さらに、学会事務所とするのに適切な場所がなかった日本東洋医学会に事務所を提供したり、漢方の復興と普及を図る目的とした「漢方友の会」を設立(1959年4月)し、定期的な講演と機関誌「活」を発行するなど、財界側から漢方医や漢方医学界を支援した[2]

その後、漢方製剤を保険薬として申請するための活動を行うが、厚生省は、科学的証明ができていない、成分がわからないなどの理由から直ちには許可しなかった。当時日本医師会長であった武見太郎は、漢方医ではないものの、明治政府が自国の伝統的医学を抑圧してきたことを好ましいこととは考えていなかったため、二代目重舎らの申請に対し「反対しない」という態度をとった。厚生省も大塚敬節を薬事審議会委員に委嘱するなどした結果、漢方製剤が薬価基準に収載される[3]1967年に小太郎製薬の4品目が薬価収載され、1976年に津村順天堂の33処方を始め41処方・54品目が追加収載[4][5][6])。

経歴

  • 1908年初代津村重舎の長男として東京都日本橋に生まれる。
  • 1934年慶應義塾大学経済学部卒業
  • 1935年12月:兵役(近衛第一連隊入隊)
  • 1936年:津村順天堂が株式会社に改組、兵籍のまま取締役に就任
  • 1937年:除隊
  • 1941年:初代津村重舎の死去に伴い、二代目重舎を襲名、津村順天堂および東亜公司の社長に就任
  • 1944年:応召、成田無線通信隊に配属。11月近衛師団司令部に異動。
  • 1945年9月:復員
  • 1946年4月:経済同友会設立発起人
  • 1947年1月:日本生薬学会賛助会員
  • 1947年8月:東興薬品商事設立、社長就任
  • 1950年3月:日本東洋医学会賛助会員
  • 1950年7月:津村建物設立、社長就任
  • 1951年1月:津村交易設立、社長就任
  • 1957年10月:中将湯ビルに漢方診療所開設、医療法人金匱会設立(翌年1月認可)、理事長就任
  • 1959年4月:漢方友の会設立、理事長就任
  • 1965年5月:東京都家庭薬工業協同組合理事長就任
  • 1966年2月:全国家庭薬協議会会長就任
  • 1967年6月:東京都薬事審議会委員就任
  • 1970年7月:東京生薬協会会長就任
  • 1972年:漢方友の会の事業を継承・発展させた日本漢方医学研究所設立、理事長就任
  • 1976年2月:社長退任、会長に就任
  • 1976年9月:津村順天堂の医療用漢方製剤が保険薬に指定される
  • 1979年8月:漢方生薬剤研究会会長就任
  • 1983年7月:日本漢方製剤協会会頭就任

脚注

  1. ^ 津村重舎『漢方の花ひらく:古来の実績に科学の光を』1993年、善本社、p79、ISBN 4-7939-0308-8
  2. ^ 山田光胤「日本漢方の伝承と系譜」『日本東洋医学雑誌』1995年、46巻、4号、p515
  3. ^ 津村重舎『漢方の花ひらく:古来の実績に科学の光を』1993年、善本社、p90-91、p153、ISBN 4-7939-0308-8
  4. ^ 「医療用漢方エキス製剤の薬価収載と品目数の推移」日本漢方生薬製剤協会webページ
  5. ^ 「歴史」小太郎製薬webページ
  6. ^ 「菊谷豊彦氏インタビュー(1)」『漢方新聞』1997年2月25日、4号、3面

参考文献

外部リンク