ポッサム・ボーン

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ピーター・レイモンド・ジョージ「ポッサム」ボーンPeter Raymond George "Possum" Bourne, 1956年4月13日 - 2003年4月30日)は、ニュージーランド出身のラリードライバー。スバルのモータースポーツ活動に最も貢献したラリードライバーのひとり。

概要

  • 1979年にラリー初出場を果たし、その後ニュージーランド国内戦で腕を磨き頭角を現し、1983年にレオーネをドライブして同年のニュージーランドラリーでWRC初出場を果たし、14位を獲得1984年、85年のニュージーランドラリーで共に8位に入賞して注目を集め、翌年86年から始まるスバルのサファリラリー挑戦の一員に加わる。
  • 1987年のニュージーランドラリーで3位に入って一躍脚光を浴びる。1993年から始まるスバルのアジア・パシフィックラリー選手権(APRC)挑戦に際してワークスドライバーとして、その期待に応えて同年のドライバーズ・チャンピオンを獲得。1994年もAPRCを連続して制した。同年の香港北京ラリーでは、総合優勝。2000年には再びAPRCチャンピオンとなる。
  • 2002年9月北海道で行われたAPRC「北海道ラリー」でもグループA仕様のインプレッサで総合優勝を果たしている。

人物

  • ニュージーランド、オーストラリアの国内ラリー選手権でもスバル車で活躍しており、特にオーストラリア選手権では1996年から2002年までの7年連続でチャンピオンを獲得。前人未到の大記録として、オーストラリアのモータースポーツ史に名を刻んだ人物である。
  • メモリアル・セレモニーでニュージランドやオーストラリアのラリードライバーら約100人が各自のヘルメットを持参して整列していたのが、何より彼の分け隔てない幅広い交友関係を物語っていた。

事故

2003年4月18日、出場予定であったニュージーランドのヒルクライムイベント「レース・トゥ・ザ・スカイ」のコース視察中に正面衝突の交通事故に遭い、頭部、胸部、両脚に複雑な負傷を負った。ボーンは空輸で病院に搬送され、ボーンは一時の深刻な状態は脱したものの、4月30日現地時間午前0時58分にニュージーランドの病院で息を引き取った。47歳。 この年はプロダクションカー世界ラリー選手権(PCWRC)にスバルプロダクションラリーチーム(SPRT)のドライバーとして参戦しており、新型インプレッサ・グループNで世界チャンピオンへの挑戦を行っていた。

事故後

ボーンのメモリアル・セレモニーが事故の約1ヵ月後の5月6日に、ニュージーランド・オークランドシティより50kmほど南にあるポッサム・ボーン・モータースポーツの本拠地であるプケコヘのコミュニティーセンターで執り行われた。 スピーチでは、ボーンの無名時代からの様々なエピソードなどが紹介され、彼のの終始いかなる時にもスマイルを忘れない人柄を表したものとなった。セレモニー後半ではSUBARUラリーチーム・オーストラリアのメンバーによる彼とポッサム・ボーン・モータースポーツに対する賛歌や、彼のこれまでのラリー走行シーンを集めたビデオの上映もあり、お別れのセレモニーというよりも、まさにこれまでの彼の多大なる功績に対しての「Prizegiving」というものとなった。

関連項目

外部リンク