大島宇吉

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大島宇吉

大島 宇吉(おおしま うきち、1852年4月24日(嘉永5年3月6日) - 1940年(昭和15年)12月31日[1])は、愛知県東春日井郡小幡郡(現:名古屋市守山区)出身[2]日本新聞記者実業家政治家

現在の中日新聞社の前身の1つである、新愛知の創業者[3]。また政治家として、愛知県会議員、衆議院議員(1期)を務める[2]

経歴

嘉永5年(1852年)3月6日、尾張国東春日井郡小幡郡(現:愛知県名古屋市守山区)で大島宇右衛門の三男として生まれる[2]。その後、大島為三郎の養子となる[4]

若いころは自由民権運動に参加し、自由党の闘士として活躍する[1][2]。名古屋の自由党員が起こした名古屋事件に関わっているという説もあるが、立件はされなかった[5]

1884年、愛知県会議員に当選。

1886年3月に旧自由党の同志らとともに「無題号」「金城だより」を発刊する[3]

1887年7月、「無題号」が「愛知絵入新聞」に改称され、日刊となる[1][3]。「愛知絵入新聞」はその後、度重なる官憲の弾圧、発行停止処分により廃刊となる[1][2]

1988年7月、新愛知新聞を創刊する[3]

1890年7月に行われた、第1回衆議院議員総選挙に出馬するものの落選。その後、新愛知新聞社社長に就任する[1]。 社長就任後は、紙面の改善は小室屈山主筆に託し、自らは各地を回り販売網の拡大に乗り出し、東海・北陸・上信越から関西まで各地に支局を設ける等、販売網を広げていった。また、広告についても自ら東京や大阪の代理店・広告主を訪れるなど注力し、昭和に入ったときには新愛知を全国有数の地方紙まで発展させた[2]。同じ愛知県にあった名古屋新聞とは論調が異なり(新愛知が政友会系、名古屋新聞が民政党系)、新聞販売やプロ野球の面でも激しく対立した。

1919年立憲政友会から衆議院議員に当選(第13回衆議院議員総選挙の補欠選挙繰上補充)。

1933年には、関東大震災で経営状態が悪化していた東京の名門紙である國民新聞を買収[1]1935年には國民新聞会長に就任する。

その他にも、株式会社小牧銀行取締役[4]、株式会社中央市場取締役[4]、興農株式会社取締役[4]日本放送協会評議員、同盟通信理事を務める。 また、農産業の振興や航空事業の発展普及にも貢献した[1]

1940年12月31日、89歳で死去する[1]

人物

生涯、豊川稲荷を信奉し、新愛知の発展を祈願したという逸話が残っている[1]

電通が周年事業として実施しているマスコミ功労者顕彰で、新聞人として第1回となる1955年に選出されている[6]

家族

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 春原昭彦. “中京新聞界の祖―「新愛知」を最有力地方紙に 大島宇吉(おおしま・うきち)”. 日本新聞博物館. 2021年5月28日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 守山区に輝く人 大島 宇吉”. 名古屋市図書館. 2021年5月28日閲覧。
  3. ^ a b c d 社史・沿革:中日新聞Web”. 中日新聞. 2021年5月28日閲覧。
  4. ^ a b c d 大島 宇吉 『人事興信録』データベース”. 名古屋大学. 2021年5月28日閲覧。
  5. ^ 手塚豊「自由党名古屋事件裁判考」、慶應義塾大学法学研究会、1963年3月。 
  6. ^ マスコミ功労者顕彰”. 電通. 2021年5月28日閲覧。

関連項目