スリランカの歴史
この記事ではスリランカの歴史について解説する。スリランカの国旗にはライオンが描かれているが、これは最初のシンハラ王がライオンの孫であるという建国説話にちなんだものである[1]。
紀元前483年にシンハラ族の祖とされるヴィジャヤ王子が来島し、シンハラ王朝を建てて、アヌラーダプラ王国を作ったとされる。王都はアヌラーダプラに置かれた。紀元前3世紀中頃にアショーカ王の王子マヒンダが仏教を伝え、アヌラーダプラにマハービハーラ(大精舎)が建てられた。1505年にはポルトガル人が、1658年にはオランダ人が来航し、海岸地帯を植民地化した。その後1802年にアミアン条約によりイギリスの植民地となり、1815年にはキャンディー王朝が滅亡して全島がイギリスの植民地となった。1948年イギリス連邦内の自治領として独立。1972年には国名を「スリランカ共和国」に改めるとともに、イギリス連邦内自治領セイロンから完全独立した。そして1978年9月に、国名を「スリランカ民主社会主義共和国」に改称した。
概要
スリランカの歴史はより広範なインド亜大陸とその周辺地域(南アジアや東南アジア、インド洋)の歴史と絡み合っている。
セイロン島で発見されている初期の人類遺跡は、およそ38,000年前のバランゴダ人のものである。
スリランカの歴史時代はおおよそ3世紀頃に始まり、それはパーリ語で書かれたマハーワンサ、ディーパワンサ、コーラワンサといった年代記に基づいている。こうした書物は北インドのウィジャヤ王子が来島してからの歴史を記述している[2][3][4][5]。セイロン島への入植に関する最初期の記述がこれらの年代記に見られる。これらの年代記はシンハラ人の祖先が紀元前6世紀にタンバパニ王国を成立させて以降の時代を扱っている。スリランカ最初の統治者であるアヌラーダプラ王国のパンドゥカーバヤは紀元前4世紀の記録に残っている。仏教は紀元前3世紀に阿羅漢マヒンダ(インドの皇帝アショーカ王の息子)によって伝来した。
その後何世紀にもわたりセイロン島は多数の王国に分裂したが、一時的に(西暦993-1077年)チョーラ朝の侵略によって統合していた。スリランカはアヌラーダプラ時代からキャンディ時代にかけて、181もの君主によって統治されていた[6][信頼性要検証]。16世紀以降、いくつかの沿岸地域はポルトガル、オランダ、イギリスによって管理された。1597年から1658年にかけて、セイロン島のかなりの領域はポルトガルの支配下となった。八十年戦争にともなうオランダの侵入によって、ポルトガルはセイロン島の権益を失った。キャンディ戦争を経て、1815年にセイロン島はイギリスの支配下で統一された。イギリスに対して1818年にウバ反乱、1848年にマータレー反乱という2度の武装蜂起が発生した。最終的に1948年に独立が認められたが、その後も1972年までドミニオンとして英連邦に留まった。
1972年にスリランカは共和制に移行した。1978年に施行された憲法では、大統領を国家元首とした。1983年に始まったスリランカ内戦(1971年と1987年のJVPによる武装蜂起を含む)は25年の長きにわたり、2009年に終結した。またシリマヴォ・バンダラナイケ政権下の1962年にはクーデター計画もあった。
先史時代
人類が入植した証拠はバランゴダ遺跡で見つかっている。バランゴダ人は約125,000年前にセイロン島に到達し、洞窟に居住し狩猟採集社会を営む中石器文化を形成していたことがわかっている。有名なバタドンバレナやファヒエン洞窟を含むこれらの洞窟では、バランゴダ人による工芸品が多数出土しており、彼らは現在わかっている最初のセイロン島定住者であると考えられている。
バランゴダ人は恐らく狩猟のために森林を焼くことで、現在ホートンプレインズと呼ばれる草原を作り出した。しかし、この草原において紀元前15,000年頃のオーツ麦や大麦が発見されたことで、この頃にはすでに農耕が始まっていたものと推測されている[7]。
いくつかの小さな(長さ4cmほどの)花崗岩石器、土器、焼け焦げた木片、粘土製の甕棺墓などは中石器時代のものであると比定されている。ワラナラジャマハヴィハラの洞窟やカラトゥワワ地区での近年の発掘調査により、紀元前6,000年頃の人類遺構が発見されている。
シナモンはスリランカ原産であり、紀元前1,500年頃の古代エジプトで見つかっている。このことから、エジプトとセイロン島の間でこの頃には貿易が行われていたことが推察される。また、ヘブライ語聖書に現れる地名タルシシュがセイロン島に所在していた可能性も指摘されている。ジェームズ・エマーソン・テネントはタルシシュの所在地を現在のゴールであるとしている[8]。
遅くとも紀元前1,200年頃までには、既に南インドにおいて原史時代の鉄器文化が成立していたとみられる(Possehl 1990; Deraniyagala 1992:734)。スリランカでの最初期の鉄器はアヌラーダプラ、およびシーギリヤのアリガラ岩陰遺跡で発見され、放射性炭素年代測定により紀元前1,000~800年頃のものとされている(Deraniyagala 1992:709-29; Karunaratne and Adikari 1994:58; Mogren 1994:39; with the Anuradhapura dating corroborated by Coningham 1999)。さらなる調査により、鉄器文化の発生時期は南インドのそれに一致するまで遡る可能性が非常に高い[9]。
原史時代(紀元前1,000~500年)の間、スリランカは文化的にインド南部と共通しており[10]、巨石墳墓や黒赤土器文化、製鉄、耕作技術、巨石に刻まれた未解読文字などの共通点を持つ[11][12]。この文化的集合体はVelir(タミラカムの小王族)のようなドラヴィダ族とともに南部インドから広まっていき、それはプラークリット話者よりも早い時期であった[13][14][11]。
スリランカにおける鉄器時代の始まりを示す考古学的証拠はアヌラーダプラで発見された。そこでは紀元前900年よりも前に大規模な都市開発が行われた。紀元前900年には都市規模は15ヘクタールに及んでいたが、紀元前700年までにはさらに50ヘクタールに拡大していた[15]。同時期における同様の移籍はシーギリヤのアリガラでも発見されている[16]。
ワンニヤレット、あるいはヴェッダと呼ばれる狩猟採集民は、現在でも中部州、ウバ州およびスリランカ北東部に居住している。彼らが恐らく最初の入植者バランゴダ人の直系子孫である。入植時期は人類がアフリカからインド亜大陸へと広がった時期に近いと考えられる。
その後、インド・アーリア人の入植者たちがシンハラと呼ばれる独自の水力文明を打ち立てた。彼らの業績には古代世界におけるため池やダムの建設に加え、ピラミッドに似たストゥーパ(シンハラ語ではダゴバ)を数多く作ったことなどが挙げられる。この段階のスリランカ文化は、初期仏教の導入期と言える[17]。
仏典に記録された初期の歴史では、ブッダがナーガ族の王に会うために3度セイロン島を訪れたことに触れている(ナーガ族は伝説上の部族で、蛇にも人にもなることができるとされている)[18]。
現存するセイロン島最古の記録であるヴィーパワンサとマハーワンサでは、ヤクシャ、ナーガ族、ラークシャサ、デーヴァ族がインド・アーリア人に先んじてセイロン島に住んだとされている。
脚注
- ^ 南アジアを知る事典 & (平凡社), p. 832.
- ^ Geiger, W. (1930). “The Trustworthiness of the Mahavamsa”. The Indian Historical Quarterly 6 (2): 228 .
- ^ Gunasekara, B. (1995) The Rajavaliya. AES reprint. New Delhi: Asian Educational Services. p iii ISBN 81-206-1029-6
- ^ “Wh124 — Buddhism in South India — Unicode”. www.bps.lk. 2016年4月7日閲覧。
- ^ Holmstrom, Lakshmi (1996-01-01) (英語). Maṇimēkalai. Orient Blackswan. ISBN 9788125010135
- ^ Ancient Kings and Rulers of Sri Lanka (Ceylon). kapruka.com
- ^ “WWW Virtual Library: Prehistoric basis for the rise of civilisation in Sri Lanka and southern India”. Lankalibrary.com. 2012年8月17日閲覧。
- ^ “WWW Virtual Library: Galle : "Tarshish" of the Old Testament”. Lankalibrary.com. 2012年8月17日閲覧。
- ^ “Early Man and the Rise of Civilisation in Sri Lanka: the Archaeological Evidence”. Lankalibrary.com. 2012年8月17日閲覧。
- ^ “Reading the past in a more inclusive way - Interview with Dr. Sudharshan Seneviratne”. Frontline (2006) (2006年1月26日). 2022年9月6日閲覧。
- ^ a b Seneviratne, Sudharshan (1984). Social base of early Buddhism in south east India and Sri Lanka
- ^ Karunaratne, Priyantha (2010). Secondary state formation during the early iron age on the island of Sri Lanka : the evolution of a periphery
- ^ Robin Conningham - Anuradhapura - The British-Sri Lankan Excavations at Anuradhapura Salgaha Watta Volumes 1 and 2 (1999/2006)
- ^ Sudharshan Seneviratne (1989) - Pre-State Chieftains And Servants of the State: A Case Study of Parumaka -http://dlib.pdn.ac.lk/handle/123456789/2078
- ^ Deraniyagala, S.U. (2003) THE URBAN PHENOMENON IN SOUTH ASIA: A SRI LANKAN PERSPECTIVE. Urban Landscape Dynamics – symposium. Uppsala universitet
- ^ “Features | Online edition of Daily News – Lakehouse Newspapers”. Dailynews.lk (2008年11月13日). 2013年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年8月17日閲覧。
- ^ de Silva, Chandra Richard (2011). “A hydraulic civilization”. The Sri Lanka Reader: History, Culture, Politics. Holt, John, 1948-. Durham [N.C.]: Duke University Press. ISBN 9780822394051. OCLC 727325955
- ^ Ranwella, K (5–18 June 2000). “The so-called Tamil kingdom of jaffna”. 2009年2月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月28日閲覧。
参考文献
- 『南アジアを知る事典』平凡社、2002年。ISBN 4582126340。