佐藤裕久
さとう ひろひさ 佐藤 裕久 | |
---|---|
生誕 |
1961年8月18日(62歳) 日本・京都府京都市上京区 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 神戸市外国語大学英米語学科中退 |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 1984年 - 現在 |
団体 |
「株式会社バルニバービ創業者」代表取締役会長CEO兼CCO 「一般社団法人 日本飲食団体連合会」副会長 「日本ファインダイニング協会(JFDA)」副会長 「GEA地球環境行動会議」委員[1] 「iU 情報経営イノベーション専門職大学」超客員教授 |
著名な実績 |
著書『一杯のカフェの力を信じますか?]』 著書『日本一カフェで街を変える男―人、モノ、金が輝くスーパー経営術』 |
影響を受けたもの |
法然上人 親鸞上人 |
テレビ番組 |
『空飛ぶグータン』 『とくダネ!』 『ワールドビジネスサテライト』 『がっちりマンデー!!』 |
公式サイト |
佐藤裕久 (@hirohisa.sato.bbb) - Instagram 佐藤裕久 (sns.sato) - Facebook |
佐藤 裕久(さとう ひろひさ、1961年8月18日 - )は、日本の実業家。「株式会社バルニバービ」創業者、代表取締役会長CEO兼CCO、「一般社団法人 日本飲食団体連合会」副会長、「日本ファインダイニング協会(JFDA)」副会長、「GEA地球環境行動会議」委員、「iU 情報経営イノベーション専門職大学」超客員教授。京都府京都市出身、神戸市外国語大学英米語学科中退。
概要[編集]
1961年、京都生まれ。大学時代、学生企業を立ち上げイベントなどのプロデュースを手がけたのち、アパレル企業に入社し独立。1991年に有限会社バルニバービ総合研究所を設立し、1995年12月、1号店「アマーク・ド・パラディ」を大阪・南船場に出店。2023年9月時点で90店舗以上を出店するとともに、兵庫県淡路市、島根県出雲市などに複合施設を開業し「地方創再生プロジェクト」を展開中[2]。
経歴[編集]
京都府京都市生まれ。西陣(上京区)にある和菓子屋に生まれる[3]。京都市立乾隆小学校、京都市立嘉楽中学校、東山高等学校を卒業[4]。
1980年(昭和55年)4月神戸市外国語大学英米語学科に入学。同級生にトリドールホールディングス創業者の粟田貴也がいる。佐藤が1年で作ったサークルに粟田が入部してきた。退屈な講義には出ず、入学直後に学生企業を立ち上げ、神戸市外国語大学の名物となった「七夕祭り」というイベントを企画する[4]。
1984年(昭和59年)1月、神戸市外国語大学を中退。大阪のアパレル会社に見習いとして入社[4]。月商30万の小さなショップ(コンテナ)を任せられる。学生企業時代に知り合ったDCブランドのハウスマヌカンの女の子たちから、社内販売で買ったけど、もう着なくなった服を預かって、売れた値段の70%を払い戻すという契約で委託販売を始める。それが予想以上のバカ当たりとなり、8カ月後には月商1000万円あがり、営業利益200万円残った[5]。数多くのマスコミに取り上げられる[4]。
1987年(昭和62年)25歳で独立、アパレル業を起業。パリの人気レディースファッションメーカーと独占販売契約を結ぶ。日本全国で展示会やって、卸の予約をどんどん取り付る。年収2,000万円まで達し、芦屋の山手のマンションに住み、ポルシェに乗るほどの成功者だったが、27歳のとき大晦日の日に自宅を火災で全焼。3日後に独占契約を結んでいたパリのブランドが倒産したことを知る。さらに3日後に百貨店から「2店舗を閉めてほしい」と通告。半年後に会社を手放すことになった。2,000万円の負債を抱え、人が離れていった。佐藤の親が借金の保証人となった。親がいなかったら命を絶っていたかもしれなかった。「お金では幸せになれない」と自覚。会社倒産後、寝る間を惜しんで働き月に37万円ずつ返済、5年間で完済した。いつかまた事業をやろうと構想する[6]。
1991年(平成3年)30歳の誕生日に「バルニバービ総合研究所」を設立。ファッション関連の企画・マーケティングの仕事を始める。バルニバービという社名は、風刺小説『ガリヴァー旅行記』(作者ジョナサン・スウィフト)に登場する学士院の名前から来ている。大阪南船場の材木店跡地にブラッスリー「アマーク ド パラディ」を開業し、以後、全国に92店舗(2023年1月末時点)のレストラン・カフェ・ホテルを展開[5]。
1995年(平成7年)1月17日、阪神淡路大震災が発生。それまで手掛けたアパレル事業の個人負債を完済する見通しがたち、人生を再始動しよう、何をやろうか、海外もいいなあとワクワクしていた。たまたま大阪にいて被災を免れたが、19歳から住んでいた神戸の惨状や知人の死に直面して「命って何だろう」「人生って何なんだろう」と考え、第二の故郷の窮状に役に立ちたいと炊き出しを始めた。「食は生きる力になる」「人を笑顔にできる」と強く感じ、飲食業の世界へと押してくれた[2]。貯金0円のなか20代前半から交友関係のあったキンチョールで有名な大日本除虫菊代表取締役の上山直英から500万円を借りた[7]。
1995年(平成7年)12月、34歳のとき「アマーク・ド・パラディ」1号店(60席/大阪・南船場)を出店。ファッションの仕事でたびたび訪れていたパリのカフェを念頭にした。朝からワインを飲む人もいれば、夜、スイーツだけを食べにくる人もいる。若いカップルから熟年の夫婦まで思い思いに時間を楽しむパリのカフェが大好きで、こんな店があったら自分は絶対に通うなあと考えた。当初は赤字だったが「合コン試食会」などの企画を立てつづけに実施、開店後3カ月目から収益が上がり、6カ月目には月商1000万円を突破。現在のカフェブームの先駆けとなった[2]。8ヶ月後に上山社長の500万円を完済するが、上山から「寝ないでよく頑張ったな」と返済した札束をそのままプレゼントされた[7]。
1998年(平成10年)株式会社バルニバービに組織変更[2]。
2002年(平成14年)関西地区に、レストラン、バー、ベーカリーなど11軒もの店をオープン[2]。
2003年(平成15年)6月、91年の歴史ある横浜赤レンガ倉庫内に“sumire”をオープン。横浜の風情をいかした「懐かしくも新しいダイニング」を誕生。関東進出も果たした[4]。
2004年(平成16年)京都・同志社大学内にカフェレストラン「アマーク ド パラディ 寒梅館」をオープン、学生食堂の改革を果たす。同年、鹿児島県鹿屋市と共同プロジェクト「アマカラ鹿屋」を立ち上げ、第1号店として、焼酎・さつま揚げ「かのや篠原」を大阪・淀屋橋にオープン[4]。
2005年(平成17年)中国・恵州市に「ガーブ夜間飛行」オープン。東京・芝公園「ガーブ ピンティーノ」、串揚げ「九四」2点同時オープン。東京タワーを見上げる絶好のロケーション、有機野菜、世界の厳選素材を使った料理、関西食文化の串揚げが好評となり、連日メディアの話題となる[4]。
2006年(平成18年)10月4日、河出書房新社から初の著書『一杯のカフェの力を信じますか?』を出版。伝説のカフェ「カフェ ガープ」がどのようにして誕生したのか?店を作り上げ南船場の仕掛人と呼ばれた佐藤裕久とはどんな男なのか?人生と起業について赤裸々に綴った経営入門書[8]。
2007年(平成19年)2月1日、グラフ社から2冊目となる著書『日本一カフェで街を変える男―人、モノ、金が輝くスーパー経営術』を出版。人の流れを呼び、地域の不動産価値を上げ、街をいきいきと輝かせる経営理念を語る[9]。
2013年(平成25年)9月7日、2020年東京五輪開催が決定。ますます東京の一極集中が加速すると感じる。海外からお金のある人が東京を訪れて別宅としてマンションや家など不動産を買う人が増えるだろう。そうなると普通に働く人たちは、ますます東京では暮らしにくくなる。そう考えた時に、これからは地方へと目を向ける時代がやってくると感じた[10]。
2015年(平成27年)東証マザーズ市場(現・東証グロース市場)に上場[11]。
2016年(平成28年)10月1日、自身が掲げる地方創再生(創生・再生)プロジェクトの第一弾として、滋賀県の大津駅観光案内所「OTSURY」、同駅舎内にてカフェ&レストラン「THE CALENDAR」、カプセルホテル『CALENDAR HOTEL』をオープン。
2019年(令和元年)4月27日、地方創再生プロジェクト第二弾として淡路島西海岸に3階建て一棟(300席)のレストラン「GARB COSTA ORANGE」を開業[12]。プロジェクトを立ち上げるまで何もない野原だった。2024年現在は年間35万人の人が集まり、10億円の売り上げを上げるまでになった[11]。
2023年(令和5年)1月、同エリア内に10店舗以上のレストラン・ホテルを開業し「住みたくなる街づくり」をテーマに掲げ、淡路島活性化の一躍を担っている。同年5月、地方創再生プロジェクト第三弾として島根県出雲市でもレストランとホテルの開業。2024年現在は年間3億円の売り上げ規模となる[13][11]。
現在は、一般社団法人 日本飲食団体連合会副会長、日本ファインダイニング協会(JFDA)副会長、GEA地球環境行動会議委員、iU 情報経営イノベーション専門職大学超客員教授を兼務する[14]。
人物[編集]
- 趣味はDJ、読書、バンド活動、テニス、サウナ[12]
- 日課はジョギング、未来への思索[2]
- 座右の銘は「眠りにつく前に」[2]
- 尊敬している人は法然上人、親鸞上人[2]
- 実家は京都の西陣で「京菓子舗佐藤」を営んでいた。駄菓子に菓子、牛乳やパンまで売っている小さな商店。母方の曽祖父は、明治時代の初期に「オアシス」という洋食レストランを開業、今でいうアントレプレナー(ゼロから会社や事業を創り出す人)。その後も手広く商売を広げ て京都大学私設応援団長もやっていた。祖父の代になってレストランの経営は厳しいということから菓子屋さんに転業した[5]。
ビジネス論[編集]
- 1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災をキッカケに「食で人を喜ばせる」「自分が幸せだと思うことを仕事にする」という経営哲学が確立された[6]。
- バットロケーション(悪い場所)をグッドプレイス(良い場所)に変える。一般的に繁盛店を作りたい場合は駅チカ、繁華街などの「グットプレイス」を狙うが、佐藤は人が来なさそうな「バットロケーション」に注目する。
- 淡路島は殆どが元空き地で中には人が住んでいない空き家まであったエリアを開発した。一見、バッドな場所でも実はグッドな場所がけっこうあると思った。隠れグッドプレイスの見極めポイントとして「① 魅力的な地元食材がある。淡路島には海の幸が多く回転ずしに多く使うことが出来る。野菜も地元の畑を会社が農家さんから借りて野菜を作っている」「② 水辺があること。美しい海が広がっている。都会はビルが立ち並び風景が変わるけれど、海の前にはビルが建たないから、これはグッドロケーションにする大きなポイントになる。バルニバービの東京の蔵前カフェ「Riverside Cafe Cielo y Rio」もすぐ前は隅田川で竹芝のBESIDE SEASIDEも前には東京湾がある」「③ 夕日を見ることが出来る。西側の海岸をとることで絶好の夕日スポットで夕日こそが、隠れグッドプレイスの最後のキーワード」[13]。
- 採用面接試験で必ず「食べることが好きですか?」「お客様の笑顔が見たいですか?」2つの質問をする。答えが2つとも「Yes」でなければ採用しない。理由として「食べることが好きではない人が、お客様の気持ちを理解し、お客様に満足いただく仕事ができるとは思えないから」。仕事は「手伝ってあげた」「助けてあげた」と勘違いしている人がたくさんいるが、そうではなく「手伝わせてもらった」「助けさせてもらった」と考えるべき。「お客様の笑顔が見たい」という答えには、困っている人の役に立てた時、単純にうれしいという意味があると考える。これが、バルニバービの根本中の根本にある考え方である[15]。
- ビジネス信条3つある。「① 計算(打算)より本能と感覚~事業展開する際、利便性や人流などのデータ、マーケティングが重要視されが、佐藤にとってデータは不要。そこに行きたいと思う感覚や未来の発展を感じる本能が大切」「② 失敗こそ成功への道~若い頃の失敗があったからこそ今がある。27歳の時にアパレル会社を手放す経験をした。それがなかったら、その後起こした今の事業でもっと大きな失敗をしていただろう」「③ 心は時に自然と一体化する~淡路島の食材を10年前から使っているが、当初は出店には思いいたらなかった。通うたびに美しい自然の力やご縁に導かれ、ここで事業を起こしたいと心から思うようになった」[10]。
株式会社バルニバービ[編集]
BALNIBARBI Co.,Ltd(バルニバービ)。1991年設立。阪神淡路大震災をきっかけに『食』のビジネスをスタート。全国でレストラン・カフェ・ホテルを展開。淡路島・出雲市にて地方創再生プロジェクトを進行中。 2015年東証マザーズ(現 東証グロース)上場。2022年エコファースト企業に認定[16]。
資本金は4億6,682万円(2023年7月末)、売上高は97店舗で133.63億円(2023年7月度)[16]。
書籍[編集]
- 『一杯のカフェの力を信じますか?』(河出書房新社、2006年10月4日) ISBN 978-4309269207
- 『日本一カフェで街を変える男―人、モノ、金が輝くスーパー経営術』(グラフ社、2007年2月1日) ISBN 978-4766210330
出演[編集]
テレビ[編集]
- 『空飛ぶグータン〜自分探しバラエティ〜』(フジテレビ)[4]
- 『情報プレゼンター とくダネ!』(フジテレビ)[4]
- 『ワールドビジネスサテライト』(テレビ東京)[4]
- 『がっちりマンデー!!』(TBSテレビ)[13]
雑誌[編集]
- 『飲食店経営』(アール・アイ・シー)- ※連載「バッドロケーションを最高の物件につくり替え」
- 『日経レストラン』(日経BP社)- 「アジアはこれからが面白い」
- 『BOSS』(経営塾)- 「気持ちのよさが条件 流行に流されない経営」
- 『近代食堂』(旭屋出版)- 「ニッポン食材・新活用術」
- 『SAVVY』(京阪神エルマガジン)[4]
- 『ハバブー』(キリンビール社)[4]
- 『CLASSY.』(光文社)[4]
- 『日経レストラン』(日経BP社)[4]
- 『ハナコウエスト・グルメ』(マガジンハウス)[4]
- 『KANSAI1週間』(講談社)[4]
- 『カフェ&レストラン』(旭屋出版)[4]
- 『人気の創作すし』(旭屋出版)[4]
- 『大人の大阪』(阪急電鉄)[4]
- 『HOW好』(上海文芸出版社)[4]
- 『ダイニング』(柴田書店)[4]
- 『ミーツ・リージョナル』(京阪神エルマガジン)[4]
- 『RAY』(主婦の友社)[4]
- 『ミス』(世界文化社)[4]
- 『商店建築』(商店建築社)[4]
- 『アントレ』(リクルート)[4]
- 『東京カレンダー』」(アクセスパブリッシング)[4]
- 『BRIO』(光文社)[4]
- 『TOKYO★1週間」(講談社)[4]
- 『CanCam』(小学館)[4]
- 『東京情緒食堂』(アクセスパブリッシング)[4]
- 『LEON』(主婦と生活社)[4]
- 『TARGET』(講談社)[4]
- 『FRaU』(講談社)[4]
- 『東京ウォーカー』(角川書店)[4]
- 『FIGARO』(阪急コミュニケーションズ)[4]
- 『Oggi』(小学館)[4]
- 『ゲイナー』(光文社)[4]
- 『致知』(致知出版社)[11]
新聞[編集]
脚注[編集]
- ^ バルニバービ、「日本の“食と地方と未来”を語り合う」インタビュー動画を公開。各界のリーダーとバルニバービ代表・佐藤が、日本が抱えている社会課題に「食」が起点となって解決できる道筋を探る
- ^ “第34回 株式会社バルニバービ 代表取締役 佐藤裕久 Hirohisa Sato”. ドリームゲート (2007年2月14日). 2021年2月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap 佐藤裕久プロフィール
- ^ a b c 【ドリームゲート】株式会社バルニバービ 佐藤裕久
- ^ a b 【日経ビジネス】バルニバービ佐藤会長「飲食業こそ、不動産を取得せよ」
- ^ a b バルニバービ 佐藤裕久会長(1)飲食店を始めたキッカケは阪神大震災 食には人を元気づける力があります
- ^ 紀伊国屋書店「一杯のカフェの力を信じますか?」
- ^ 紀伊国屋書店「日本一カフェで街を変える男―人、モノ、金が輝くスーパー経営術」
- ^ a b 【バルニバービ佐藤裕久 前編】 外食産業のレジェンドが地方創生に挑む
- ^ a b c d 食から始める地方創再生
- ^ a b 外食産業のレジェンドが地方創生に挑む:佐藤 裕久
- ^ a b c がっちりマンデー【2023年スゴい社長だらけの大新年会!
- ^ 【iU】情報経営イノベーション専門職大学「佐藤裕久 超客員教授」
- ^ スーパーCEO列伝・外食の未来を変える!
- ^ a b バルニバービ、「日本の“食と地方と未来”を語り合う」インタビュー動画を公開。各界のリーダーとバルニバービ代表・佐藤が、日本が抱えている社会課題に「食」が起点となって解決できる道筋を探る
関係項目[編集]
- 京都府出身の著名人
- 京都市出身の著名人
- 京都市立乾隆小学校出身の著名人
- 京都市立嘉楽中学校出身の著名人
- 東山高等学校出身の著名人
- 神戸市外国語大学出身の著名人
- iU 情報経営イノベーション専門職大学の著名な教員
- 粟田貴也(トリドールホールディングス創業者) - 大学同級生
外部リンク[編集]
- 佐藤裕久 (@hirohisa.sato.bbb) - Instagram
- 佐藤裕久 (hirohisa.sato.355) - Facebook
- バルニバービ
- 株式会社バルニバービ 今後の経営戦略について - IRTV
- 社長名鑑 株式会社バルニバービ~街を変える飲食店!?外食業界の風雲児が語る出店戦略~
- <マザーズ>投資に関する説明会開催状況について 2020年7月期 第1四半期 決算説明会資料