利用者:Quark Logo/sandbox安井御前

安井弥兵衛の娘
生誕 不明
配偶者 蜂須賀正利
父:安井弥兵衛(重幸)
親戚 兄弟:安井重継浅野重知[3]
甥:浅野長政、安井弥次兵衛[4]
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安井御前(やすいごぜん)は、『武功夜話』に登場する尾張蜂須賀城主だった蜂須賀正利の妻。人物比定については諸説ある。

※だだし「安井御前」という呼称は、どの史料にも登場せず、記事名のために創られたウィキペディアの造語で、氏名不詳

生涯[編集]

『前野文書(武功夜話)』によれば、安井弥兵衛重幸の娘。母は不詳。

兄は安井弥兵衛(重継)[6][8]。『尾張志』によれば、この安井弥兵衛は尾張宮後村(宮後城)の人で浅野長政(長吉)の実父とされる人物である[5]

弟には浅野重知[3]がいる。

『前野文書』は、安井弥兵衛重幸の娘が、蜂須賀正利に嫁いだとし、蜂須賀正勝の生母としている。他方で、『大橋家譜』は、正利に嫁いだ大橋定広の娘が正勝の母としている[9]し、『蜂須賀家記』などは、正勝の母を「某氏」としており、大橋定広の娘は継室と明記するが、安井氏に関して特に記載がない。

また、滝喜義蜂須賀正勝の生母と想定しているが、『前野文書』においても、嫁いだとあるだけで、正室だと書かれているわけではない[10]



常陸真壁藩初代藩主・浅野長政は甥にあたる。

名は不詳[11]

尾張国丹羽郡宮後村(現在の江南市宮後町)の領主・安井弥兵衛尉重幸の娘として宮後城で生まれる。

後に同国海東郡蜂須賀村(現在のあま市)の領主で斎藤家の家臣・蜂須賀正利の正室となる。


『前野文書』

『尾張群書系図部集』では、

その経緯などは不明である[12]

1526年大永6年)に嫁ぎ先の蜂須賀城で長男の蜂須賀正勝(小六)を出産したとする説があるも定かではない[12]

その後、斎藤氏に従う正利と織田信秀が敵対したため正利は領地を奪われてしまい、正利は大橋家に入ることとなる。

そのため、安井御前と小六は行き場を失い、安井家に戻される。兄である安井重継は安井家の家督を小六に譲り、安井家は蜂須賀家に吸収される[12]

脚注[編集]

  1. ^ 浅野史蹟顕彰会 1917, p. 48.
  2. ^ 東京大学史料編纂所 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本史料 第12編之32』東京大学、1935年、607-610頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450652/317 国立国会図書館デジタルコレクション 
  3. ^ a b 重幸の次男・安井善左衛門。浅野長勝の養子となり、長政の義理の弟にあたる[1]が、浅野長政の兄の浅野善左衛門氏次と同一人物説もある[2]
  4. ^ 安井重継の次男。浅野長政の実弟。小谷の戦いで討死。
  5. ^ a b 加藤国光 1997, p. 27.
  6. ^ ただし『尾張群書系図部集』では、安井弥二郎の子で、兄の安井弥兵衛の子の弥兵衛の子が浅井長政となっている[5]
  7. ^ 浅野史蹟顕彰会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 浅野荘と浅野氏』浅野史蹟顕彰会、1917年、48頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926969/41 国立国会図書館デジタルコレクション 
  8. ^ 『浅野系図』では、安井兵衛重継[7]
  9. ^ 加藤国光 編『尾張群書系図部集(上)』続群書類従完成会、1997年、169頁。ISBN 9784797105551 
  10. ^ 正室が制度化されるのは、武家諸法度が出来て以後のことで、戦国時代においては、1人に決めなければならないというものではなかった。
  11. ^ 『歴史への招待』(日本放送出版協会1979年
  12. ^ a b c 蜂須賀小六正勝の生い立ちとその生涯”. 徳島城博物館ボランティアガイド. 2023年10月2日閲覧。

参考文献[編集]