コンテンツにスキップ

利用者:Quark Logo/sandbox小早川秀秋

 
小早川秀秋 / 秀詮
小早川秀秋像(高台寺所蔵・在京都国立博物館
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正10年(1582年
死没 慶長7年10月18日1602年12月1日
改名 辰之助[注釈 1]幼名)、※木下秀俊[注釈 2] → 羽柴秀俊 → 豊臣秀俊 → 小早川秀俊[注釈 3]→ 秀秋 → 秀詮
別名 秀俊、秀秋、秀詮
通称:金吾[注釈 4]、金吾侍従、大垣少将、金吾中納言、丹波中納言、筑前中納言、岡山中納言、黄門[注釈 5]
戒名 瑞雲院殿秀巌日詮大居士[1]
墓所 黄門山瑞雲寺岡山県岡山市北区番町)
大光山瑞雲院京都府京都市下京区
官位 左衛門佐侍従左衛門督近衛少将近衛権中将従四位下参議従三位権中納言
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康
岡山藩
氏族 木下氏(杉原氏) → 羽柴氏豊臣氏小早川氏
父母 父:木下家定、母:雲照院杉原家次の娘)
養父:豊臣秀吉、養母:高台院(おね)
義父:小早川隆景
兄弟 木下勝俊木下利房木下延俊木下俊定秀秋木下俊忠木下秀規周南紹叔
義兄弟:羽柴秀勝豊臣秀次豊臣秀勝豪姫羽柴秀家羽柴秀康秀包
正室:長寿院(古満姫[注釈 6]
側室:某氏
女児[2][一説に][3]子孫を参照
特記
事項
『寛政重修諸家譜』など諸系図では嗣子なしとある
テンプレートを表示

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名丹波亀山城[注釈 7]筑前名島城主を経て、備前岡山藩初代藩主。通称は金吾[注釈 4]、筑前中納言など。

豊臣秀吉の正室高台院(おね)の甥で、初名は秀俊(ひでとし)。幼少より秀吉に寵愛されて養子に迎えられ、長じても親族として豊臣家で重きをなし、後嗣候補の1人ともなったが、秀頼の誕生により、小早川隆景の養嗣子となって小早川氏を相続した。慶長の役に出陣して渡海したが、本国で隆景が亡くなった頃に秀秋と改名[4][注釈 3]関ヶ原の戦いでは西軍に属して松尾山に陣をしいたが、東軍に寝返って西軍諸将に襲いかかり、徳川家康の勝利に大いに貢献した。一方でこれが豊臣家衰退の端緒ともなった。備前岡山転封の頃に秀詮(ひであき)と改名した[注釈 8]が、ほどなく21歳で若死した。

生涯[編集]

豊臣家の公達[編集]

天正10年(1582年)、木下家定の五男として近江国長浜に生まれた。幼名辰之助[注釈 1]。異母兄に勝俊利房延俊は同母兄。他の弟については異母弟とも同母弟ともする系図がある[注釈 9]

父の家定は高台院の兄(異説では弟)で、祖母にあたる朝日殿の弟である杉原家次の娘で後の雲照院が母であった。よって父母はいとこ同士である。一説では親族の少ない秀吉が家定に木下姓を与えたともいうが、祖父にあたる杉原定利[注釈 10]も後には木下姓を名乗っているものの、縁族にすぎず、秀吉との血の繋がりはない。

幼少よりおね(高台院)らと一緒に暮らしており、猶子として可愛がられた。本能寺の変が起こった時には、まだ生後数ヶ月の赤子であったはずだが、明智方の阿閉貞征の軍勢が長浜城に迫って秀吉の一族が避難した際には、近江總持寺で匿われて難を逃れたという記録がある[6]。また、大谷吉継の母親と考えられるおねの侍女東殿が、後年に駒井重勝に送った手紙にも「…あけちのらんのおりにふし、金吾さまをはからへ候により、そうち寺へくたされ候しゆにて候まゝ…[注釈 11]」という記述がある[7]

天正12年(1584年[8]、子のない妻のたっての願いを受けて[注釈 12]羽柴秀吉は、数えで3歳となった辰之助を養子として迎え入れた[注釈 13]。従兄にあたる秀次秀勝(小吉)は義理の兄となるが、それぞれ養子とされた順序はよく分からない。また、元服した時期も不明だが、木下秀俊[注釈 2]を称していた可能性はあり、後に羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗っている。翌年、養父・秀吉が関白となり、養母・おねは北政所と呼ばれるようになる。

権中納言秀秋(栗原信充画)

天正15年(1587年)、(『当代記』によれば)九州の役に従軍したが、このとき左衛門佐侍従[8]

秀吉は養子の中でも「五もじ」こと豪姫と秀俊を特別に寵愛しており、天正14年から18年の間と推測される秀吉の手紙に「きん五」の息災を尋ねる記述があることから[注釈 4]、前後を考えて左衛門督の叙任はこの頃と推定される[12]太閤秀吉の養子とは言え、まだ年端もいかぬ年齢であり、これはかなり異例の昇進だった。

天正16年(1588年)4月、後陽成天皇聚楽第行幸の際には金吾侍従として行列に加わり[10]内大臣織田信雄以下6大名が連署した起請文の宛所が金吾殿(秀俊)とされ、秀吉の代理で秀俊が(諸大名の)天皇への誓いを受け取っている[13]。同年7月24日、聚楽第毛利輝元が関白秀吉に拝謁したが、その際、秀吉に次ぐ順番で秀俊への献上品があり、沈香百両・虎皮10枚・金覆輪太刀を貰った[14]

天正17年(1589年)10月、小吉秀勝の元領地であった丹波亀山10万石が与えられた[12]。小吉秀勝は2年前の九州の役の際に知行不足を訴えて秀吉の逆鱗に触れ、所領没収となったが[15]、この頃、勘気を解かれた秀勝が晴れて敦賀に転封したのに伴い、豊臣秀長の預かりとなっていた丹波亀山が秀俊に与えられたものである[注釈 7]

天正18年(1590年)、小田原の役に従軍する前に、美濃大垣城主に封じられ[注釈 14]少将にも叙任されて、「大垣少将」と称されている[8]。ほどなくさらに近衛権中将に叙された[8]

天正19年(1591年)の文書で豊臣姓の使用が確認される[17]。同年10月1日に参議に任じられ[8]従四位下に叙された[18]。この年より、亀山城を居城とする[16]が、前年に召し上げられた大垣城の代わりであろう[注釈 14]

文禄元年(1592年)1月29日、従三位正三位[18]権中納言を叙任され[8]、丹波少将と称された秀勝と同じく「丹波中納言」と称された。

前年に鶴松が亡くなったこともあって、諸大名は秀吉の寵愛を受ける秀俊を、豊臣家の有力な後継者候補の1人と見なしていた。同年5月18日付の朱印状を写した『豊太閤三国処置太早計』[注釈 15]によれば、秀吉は朝鮮の征服後、豊臣秀勝(岐阜宰相)か羽柴秀家(宇喜多秀家、豪姫の夫)に朝鮮を任せるので、秀俊(秀秋)は九州に留守居として置くようにと秀次に指示しており[19]、これを信じるならばまだ10歳ほどの秀俊が豊臣家の公達で5番目ほどの序列であったことになる。9月には小吉秀勝が巨済島で病没したので、すでに他家を継いだ秀保と秀家を除くと、秀俊は秀次に次ぐ立場になった。

一方で、秀吉はまだ若い秀俊の素行には不満を感じていたようで、家老として山口宗永(玄蕃)を付けて後見役としていた[20]が、同年10月2日付朱印状では生活態度を戒める覚書を出して、万事は山口の助言に従うように命じている。


一、学問に心かけらるゝへき事
一、鷹野むようたるへき事 
一、きょう水つほね[注釈 16]方にてすへき事
一、はくろ二日に一とつゝつけられる
一、五日に一度つめとるへき事 付、近所に召遣候者共身きれいに可申付事
一、小袖うつくしき物をゑもんたゝ敷きらるゝへき事
一、諸事山口意見につくへき事
右条々あひそくに付いてハ、御中をたかはるへき上条よくよく分別しかるへく候也
天正廿年十月二日 秀吉朱印
丹波中納言殿

— 天正廿年十月二日付秀吉朱印状(一部抜粋)、大阪城天守閣所蔵[21]
(現代語訳)


一、学問を身につけるように心がけなさい
一、鷹狩り遊びは無用である
一、行水几帳などで区切られた中ですべきである
一、お歯黒を付けるのは二日に一回でよい
一、五日に一度は爪を切りなさい 追記、側近として召抱えている者達にも身ぎれいにするよう命じなさい
一、美しい小袖は沢山有るので敷物として使いなさい
一、諸事について山口玄蕃の意見を聞きなさい
この七条に違反するようならば、秀吉が立腹することになるので、道理をわきまえて生活しなさい。

文禄2年(1593年)3月13日、秀俊は宮部継潤を伴って大坂城を出発し、22日に肥前名護屋城に着陣した。秀吉は喜び、その有様が立派だったと褒め称えて、機嫌を悪くして出発支度に協力しなかったという北政所(高台院の当時の称)を手紙で叱りつけ、秀俊を我が子と思って可愛がるように、秀俊の覚悟次第では太閤の隠居分を遺そうとすら思っているのだと小言を言っている[22]ルイス・フロイスが『日本史』V部80章で「ギンゴ様と呼ばれている妻の甥にはハリマ国」を渡したと、書いているのは、豊臣家直轄領の播磨にあったこの隠居分をさしていると考えられる[23]

他方で、秀俊は同年頃から儒学者藤原惺窩を客分として従えており、名護屋城では徳川家康とこの儒学者との橋渡しもした[24]

秀俊はその後も文禄の役には参加せずに、名護屋城本丸の中に居を与えられる特別待遇で、山海の珍味でもって歓待された。ところが、5月頃から秀吉の関心は、懐妊した淀殿と胎児の無事な生育、特に男子誕生の祈願に移ってしまい、望み通りに同年8月に実子拾丸(秀頼)が生まれると、秀俊を巡る境遇も急変することになった。

小早川家の養子相続[編集]

文禄3年(1594年)2月、秀吉、秀次、秀保、菊亭晴季らと共に吉野の花見に参加し、和歌を5首ほど残している[25]。(下掲

同年11月、実子がいなかった隆景は、養子の秀包(弟)を廃嫡して、秀俊を自らの養嗣とすることにした[26]。これは前年の秀頼の誕生で、秀俊を豊臣家の後継者候補として留め置く必要がなくなったと考えた秀吉が、秀俊の後事を最も信頼していた家臣小早川隆景に託したためと言われている[26]

もっともこれには異説があり、そちらの方がより知られている。異説は黒田孝高をの軍師伝説の1つであり、それに対する小早川隆景の毛利本家への忠節の逸話でもある。
豊臣家と毛利家との間を取り持っていた孝高は、毛利家当主毛利輝元に実子がいないのを見て取り、生駒親正と2人で隆景を説いて、秀俊を毛利輝元の養子に貰い受けてはどうかと話を持ち掛け、一家のためにも国家のためにも[注釈 17]それが良いと勧めた。これを聞いた隆景は、毛利家の幸福のためにはそれは良いことだとその場では賛同しながらも、実は毛利本家が異系の血に代わることを憂慮し、彼らが帰るとすぐに(秀吉側近の医者)施薬院全宗のもとに行って、自分は筑前肥前2カ国を賜るが老齢になって継ぐ者もいないので秀俊を養子に貰ってこれを継がせて太閤様の御恩に報いたい、自分は山陽道で隠居したい、と取り次いでもらうように計らった。これを聞いた秀吉は喜び、小早川家は鎌倉以来の名族でこれを継ぐことは名誉であると言って許可した。他方で隆景は弟穂井田元清の子である宮松丸を、毛利本家の後継ぎとして輝元の養子とするように斡旋し、これは後に輝元に実子が生まれたので分家に出されることになるが、いずれにしてもこうして毛利家の嫡流を守ったというのである[27]
秀吉の発案であったか、孝高の計略であったか、隆景が自ら申し出たのか、真相がどうだったかは不明。

同月13日、秀俊は備後国三原城に下向して、毛利輝元の養女・古満姫[注釈 6]と祝言をあげた。祝言の様子は『小早川家文書』の『三原下向祝言日記』によって詳しく記録されている。(関連史料に掲示) 婚姻によって養子縁組が成立し、秀俊が小早川氏を相続することになって、小早川秀俊を名乗った[注釈 3]

養子縁組を契機に小早川家の家格・待遇が上昇し、隆景の官位は中納言となり、以後五大老の一角となった[13]

文禄4年(1595年)7月に豊臣秀次切腹事件が起こると、秀次の妻妾らの軟禁先として亀山城が使われた。現代の書籍等で、秀俊も事件に連座して改易されたとかという記述があるものがあるが、確かな史料にそういった記述は見られない。それどころか『大阪城天守閣所蔵文書』に7月20日付織田常真等連署起請文があり、そこで秀頼に忠誠を誓った28名の大名の中に秀俊をさす「羽柴筑前中納言」の血判があるので、処分の対象になるのを免れていたことがわかる[28]。すでに筑前中納言を名乗っているところをみると、結婚ちょうど一年後の隆景の隠居はすでに決まっていたようであり、事件と亀山からの移封とが重なっただけであろう。亀山城が秀次の妻妾らの軟禁場所に使われたということは、すでに亀山城も秀吉の直轄地に組み入れられていた可能性もある。血判書を奉行衆に収めた12日後である8月2日、秀次の妻妾らは京都三条河原で処刑された。

同年11月、隆景が隠居して(小早川家の本貫である)三原に退いたので、筑前北部(主に宗像郡御牧郡)の隠居領5万石を除く筑前一国と、筑後4郡、肥前2郡(養父郡基肄郡)の所領33万6,000石を相続して[8]、事実上の大幅な加増となり、筑前名島城主となった。丹波亀山10万石は蔵入地とされたようである。小早川氏の家督相続にあたっては秀俊本人はまだ13歳であったことから、隆景直臣の鵜飼元辰らから引き継ぎを受けた家老の山口宗永が筑前入りして、検地を実施して領内石高を定め、支配体制を固めた。

なお、この年か翌年の11月、秀俊が疱瘡を患い、岳父・輝元が平癒祈願をして名島城を見舞ったということで、秀吉から感謝されている[29]

慶長の役[編集]

「太平記拾遺十九:金吾中納言秀秋」(落合芳幾作)

慶長2年(1597年)に後役が始まると、秀吉より2月21日に発せられた軍令により、秀俊も1万名を率いて出陣して朝鮮半島へ渡海することになった[30]。これは豊臣家の一門衆では(秀家を除けば)唯一の渡朝例であり、『朝鮮記』[注釈 18]では秀吉の名代として秀秋を総大将に指名したとし[31]、『野史』では秀秋を日本軍総帥、黒田孝高[注釈 19](如水)を補佐、諸将42人、16万3千を率いて渡ったとしている[32]が、『浅野家文書』および『慶長役朱印状』によれば先手衆の中に秀俊(秀秋)の名前はなく、総勢も14万1,500で、釜山浦城(釜山倭城)在番を命じられ、軍目付として太田一吉が付けられた[33][30][8]。実際の任務は、前線からの報告の中継と城の普請であって、総軍の指揮は軍目付七人衆[注釈 20]の合議(多数決)と細かく指示されていたのである。

5月22日、秀俊は大坂を発して朝鮮に向けて出陣した[34]

6月12日に隆景が没したため、朝鮮在陣中のこの頃に名乗りを秀俊から秀秋へと改名して[4]、以後は小早川秀秋を名乗った。筑前の隠居領に隆景の旧家臣が残っていたが、隠居領は豊臣直轄領(太閤蔵入地)となったので、小早川家でも外様衆の村上氏・日野氏・草刈氏・清水氏は、この時に秀秋に仕官した[35]

7月17日、秀秋は慶尚道釜山浦に到着し、先着の毛利秀元と会して、全羅・忠清・慶尚の諸道に進撃する手筈を協議した[36]

そして8月頃に二手に分かれた日本軍の進撃が始まるが、秀秋は釜山に留まり、山口玄蕃(宗永)が兵8千を率いて、密陽、玄風より忠清道を進んでこれと協調した[37]

慶長2年12月23日から同3年(1598年)1月4日にかけて行われた第1次蔚山城の戦いに秀秋が参加したとする史料があるが、いずれも江戸時代成立の書物であり、信用できない。『朝鮮記』[注釈 18]や『野史』では16歳の秀秋[注釈 21]が家臣が諫めるのも聞かずに自ら救援に出陣し、毛利秀元黒田長政らとこれを撃破しただけでなく、加藤嘉明の制止も振り切って敵を追撃して自らの手で13騎を斬ったとするが、『浅野家文書』[38]『黒田家文書』[注釈 22]をはじめこの戦いに関する1次史料の古文書に、秀秋本人が参加したことを裏付けるものは無く、参加していた小早川勢は山口玄蕃を将としている。ただ、秀秋が参加していなかったとしても、この蔚山戦は後の情勢に大きな影響を与えており、軍監福原長堯石田正継女婿)が蜂須賀家政、黒田長政、藤堂高虎加藤清正早川長政竹中重隆を讒言して、文治派武断派の決裂を引き起こした[39]

慶長2年12月以前より再三秀吉からの帰国要請を秀秋は受けており、慶長3年(1598年)1月29日、蔚山城の戦いが終わった直後にようやく帰国の途についた[40]。帰国理由は不明だが、秀秋を朝鮮へ送り出してすぐ、秀吉の気が変わったということらしい。12月4日付の秀吉朱印状でも帰国の理由は記されていないが、かといって怒っている様子もなく、帰国が延期されていたことを心配し、寒さを気遣う文面である[41]

大将・秀秋の帰国後も小早川勢の幾らかはしばらく残留した。4月20日付けの山口玄蕃の書状では約700人規模の4部隊を日野左近(景幸)・清水五郎左衛門(景治)・仁保民部少輔(仁保広慰か)・村上三郎兵衛(景親)の指揮下で順次派遣して西生浦へ駐屯させ、毛利吉成の指示に従う体制を命令している[42]。指示に従わない者が出た場合は、吉成と相談のうえで成敗しても構わないとする命令が出されていた[43]。その他、500人ほどが寺沢正成の指揮下で釜山の守備に就いていたが、彼らも5月中には帰国した。

越前転封と復帰[編集]

4月2日、秀吉は、越前国の諸侯であった堀秀治堀直政村上忠勝溝口秀勝らに越後国への移封を命じ、空いた領地を秀秋に与えると言って、秀秋の封地(筑前等)は没収して蔵入地にし、石田三成を代官とした[44]

6月22日[8]、秀秋は越前北ノ庄15万石(12万石とも[8])への転封命令を受けた。譴責を受けた上での減封ともするが[8]、これには疑義が上がっている。

まず『野史』では、この顛末をその後の関ヶ原での行動にまで搦めて以下のように説明している。
蔚山城の戦いの後、石田三成は秀秋の無謀な追撃について大将らしからぬ軽率な行動であったと秀吉に讒言していた。4月に伏見城にて秀秋・秀家・秀元の3人で秀吉に謁した際に、軍監太田一吉が秀秋の武勇を賞賛したところ、秀吉は逆に大将たるものは自ら槍をとって士卒と戦うべきではない、秀秋を総大将としたのは間違いであったと言って叱責した。これを聞いた秀秋は血相を変えて自分の行動の是非を吟味して欲しいと再三食い下がったので、秀吉は怒って席を立ってしまった。三成が秀秋の2家老に謹慎を伝えると、秀秋は憤激し剣を振るって暴れたが、徳川家康が落ち着かせて邸に帰した。次ぎに孝蔵主が来て秀吉の命として筑前を没収して越前へ転封すると伝えると、秀秋は封を奪われるような罪を犯していないと拒否。むしろ賜死をと希望したが、家康が命令に従うほかないと諭した。孝蔵主が家康が北政所に取りなしてもらったらどうかと提案するので、家康はそれを引き受けて秀秋に我慢して待つように告げた。しばらくの後、ついに家康が秀吉を説得して和解させしめるまで、秀秋を筑前に居座らさせて、結局は復帰させたとする。秀秋はこれを恩義に感じて、後に東軍に組することになったというのである[45]
しかし前述の通り、秀秋の帰国日程は慶長2年12月以前にすでに決定されており、近年の研究では、蔚山の戦いへの秀秋の参加を裏付ける確たる証拠も存在しないことがわかっている[4]。また3名が秀吉に会したとするが、秀家などの帰国時期とも合わない。三成との確執や家康への恩義などといった話は、辻褄合わせに歴史を逆から説明しているようであって、『野史』に書かれている話は整合性に乏しく史実とは思われない。『藩翰譜』でも、三成の讒言によって転封されたとするが、これも経緯が『毛利家文書』などと一致せず、日本史学者の渡辺世祐は信じるに足らないと断じている[46]。また渡辺は同じく三成の讒言とする『朝鮮物語[注釈 18][注釈 23]』を俗書として批判している[49]
小早川秀秋像、好古子賛。(模写・高台寺所蔵)

『野史』の逸話が虚構であるとすれば、急な転封は何であったのか。 本多博之は、秀秋からの筑前没収は朝鮮出兵の長期化の中での日本国内の兵站補給拠点である博多を含めた筑前の直轄支配の一環とも考えられるとする[50]。 筑前をはじめとする小早川領は豊臣直轄領とされ、その代官として石田三成が任じられた。8月4日からは(小早川領の内)筑前9郡の代官には浅野長政[注釈 24]が任じられたので、両名で代官統治を行うことになった。

越前転封に伴う急な減封によって、秀秋は家臣の多くを解雇することとなり、付家老として長く秀秋を補佐してきた山口玄蕃もこの時に秀吉直臣に戻って加賀大聖寺城主となり、大名となった。隆景以来の旧臣の高尾又兵衛や神保源右衛門らは、代官の石田三成に家臣として召し抱えられた[35]。同じく旧臣清水景治は、山口玄蕃の斡旋で安国寺恵瓊を介して毛利輝元の元で仕えた。輝元は、浪人になるところだった叔父の旧臣に手をさしのべて多く召し抱えてくれた三成に、謝意を表している[51]が、他家の家臣を雇い入れるということは非敵対的な関係でのみ行えることであって、秀秋と三成との間に何らか不和があったというようなことはなかったのである[52]

『宇津木文書』によれば、秀吉は石田三成に加増するために(秀秋の所領である)筑州を所領とするように希望したが、三成は近江佐和山を離れがたいとして固辞したという[53]。秀秋に転封を命じて所領を召しあげたものの、三成に代わって要衝佐和山に封じるべき適当な人物がおらず、三成も固辞したために加増の話は宙ぶらりんとなり、取りあえず召しあげた筑州の代官を一時的に三成らが命じられた状態であったが、同年8月18日、命令を出した当の秀吉が亡くなってしまった。奉行衆には朝鮮派遣日本軍の撤収という急を要する任務を遂行する必要まで生じ、石田・浅野の両名はすぐに筑前に下向して指揮を執った。

秀吉の死に際して、秀秋は(名物)捨子茶壺、金子百枚、吉光脇差を遺贈されている[8]。『甫庵太閤記』の「秀吉公御遺物於加賀大納言利家卿館被下覚如帳面写之」では、秀秋は、家康、前田利家に次ぐ3番目に書かれており、親族筆頭であった。秀次の父・三好吉房は親族だが勘気を解かれて流罪から解放されたに留まっており、この点から考えても、秀秋が譴責を受けた身だったようには思われない。

豊臣政権が五大老による合議によって運営されるようになると、秀吉の遺命として慶長4年(1599年)2月5日付けで徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行されて、秀秋の転封が取り消されて、旧領の筑前名島30万7,000石へ復帰した[54]。ただし『毛利家文書』等によれば、五大老の意見によって旧領に戻された[55]とし、秀吉の遺命は加増であって、筑前・筑後で52万2,500石の所領に加増されたとも言う[8]。これらの状況を鑑みると、秀秋の転封が譴責を受けたものであったとは考え難い。山口玄蕃が主導する領国統治は豊臣政権の強い影響、つまり秀吉の意向を直接反映したものであり、復帰した慶長4年になってからが秀秋独自の統治が始まるのであって[56]、むしろそれ以前の秀秋が傀儡的立場で、最晩年の秀吉の気まぐれに翻弄されたとみるのが自然であろう。 なお、復帰した秀秋は博多の町衆の意向を受けて、山口宗永によって否定された博多への「守護不入」復活を約束している[50]

なお、この2月5日の秀秋転封に伴い、五大老は越後春日山城の堀秀治も越前北ノ庄に戻そうとしたが、改めて(秀吉の従弟である)青木一矩に越前北ノ庄を与え、(玄蕃の子)山口修弘を越前から加賀国江沼郡に移し、堀尾可晴に越前府中1万石を(隠居領として)与えた[57]

また、復帰した際に家臣団が刷新されて豊臣恩顧や毛利家所縁の家臣が去った一方で、新たな年寄衆には他家を渡り歩いた浪人が召し抱えられたり、地位を引き揚げられたりした。両陣営の秀秋取り込み工作は激しさを増した。

関ヶ原の役[編集]

高台院湖月心公像(模写・高台寺蔵)

北政所派・秀秋[編集]

秀秋は、元来、武断派浅野幸長[注釈 24]の従弟で北政所(高台院)の甥という血縁者である。複雑な人間模様で関係がもつれ合う中で何れの側に属していたと断定し難いが、強いて言えば、秀秋は(第三、第四の勢力とも言うべき)北政所を奉ずる1人であった[58][59][60]

慶長4年(1599年)閏3月、武断派と石田三成が争って三成が失脚して佐和山城に謹慎となった後、五奉行の中では唯一家康に接近していた浅野長政[注釈 25]が、9月、今度は逆に大谷吉継増田長盛の讒訴を受け[61]前田利長大野治長土方雄久と共に家康刺殺の嫌疑をかけられて[62]甲斐に蟄居となった。長政はその後、武蔵国府中に奔って徳川秀忠のもとに身を寄せた[61]

豊臣家の内部分裂が進む中も、北政所は旗幟を明らかにしていなかった[63]が、家康とは個人的に親しくしていた[64]ので、秀秋もこれに倣った。慶長5年(1600年)6月、会津征伐が始まるとすぐ、秀秋は家臣大野作兵衛を派遣して家康に異心がないことを伝え[59]、関西での防衛を任せて欲しいとの旨を表明していた。これに関係する話として、家老・稲葉正成(佐渡守)は会津に向かう前の家康と面会して逆心の者に備えるべく姫路城の接収の許可を願い出て了承されていたという[65][注釈 26]

7月12日の石田三成の挙兵によって関ヶ原の役が始まるが、小早川氏の主家である毛利氏は前述のように三成とは親密であり、安国寺恵瓊らの計略によって毛利輝元が西軍総大将に担ぎ上げられた。17日には輝元、宇喜多秀家の連署で諸大名に書状を発し、家康を糾弾して、豊臣秀頼への忠義を尽くすように檄を飛ばした[67]。血族の浅野氏が明確に徳川方に与し、小早川家の家老衆も半ば家康になびき、実父である木下家定は中立を称し、兄弟達はバラバラに行動する一方で、養家として毛利両川の一角という義理もあり、姻族つまり舅である輝元が西軍総大将になったという複雑な事情は、秀秋を否応なく困難な立場に追い込んだ。

家老・平岡頼勝(石見守)は、黒田長政の家臣黒田正好[注釈 27](次郎兵衛)の姉婿であるが、九州の領国から上方にのぼるに際して小倉の旅籠にわざわざ如水が出向いて来て[68]、または黒田家家老・井上之房の弟・川村越前(秀秋家臣)を介して[69][65]、秀秋を説得して家康に忠節を尽くさせるようにと策を授けられていたという[68]。頼勝はこれに同意して、同役稲葉佐渡守にも話を通し、家臣山井市介を関東に派遣して黒田長政に内通の仲介を頼んだとする[68][69]。また稲葉正成も家臣を長政・山岡道阿弥のもとに送って上方の情報を流していた[70]が、同時に三成からも近江で10万石の知行と金300枚の報償を約束する誓紙を貰って秀秋の説得を依頼されていた[66]。(後に)頼勝は弟・資重を、正成は養子・政貞を、それぞれ人質として家康のもとに差し出した[65]が、結果論から言えば、年寄衆は、戦国乱世の武将らしく最後の瞬間まで帰趨の定まらない行動をとった。

伏見城攻め調停失敗[編集]

18日、輝元、長盛は、秀頼の家臣川口宗勝と輝元の家臣島新七郎(島左近の甥)を伏見城(木幡山)に派遣して明け渡しを要求した[71]が、守将木下勝俊[注釈 28]鳥居元忠はこれを拒否した。さらに元忠は、勝俊は弟である秀秋が西軍に属しているので内通しているという噂があると難癖を付けて[72]、18日夜に勝俊を城から追い出してしまった[73]

19日、西軍は宇喜多秀家に伏見城を攻略するように命じ、野村直隆親子を軍監として付け、20日、諸将にも出陣の号令が発せられた[74]。秀秋は北政所に面会して教えを請うた[75][76]

明良洪範』では、北政所にどう思うか聞かれた秀秋は、「石田、秀頼の命と云いて西国をば催して候得共、徳川殿を亡ぼしなれば、胸中天下の権を奪わんとする所存に掛けて見え申す所なり、徳川殿の麾下に立たんは是非を云う可からず、石田が下に立たんは無念の次第なり、所詮、徳川殿へ属すべし」[77]と答えた。三成が自分の旗幟を鮮明にさせるめに伏見城攻撃を命じたとして、東軍と干戈を交えれば家康方に味方するのは難しくなると秀秋が困惑していると、北政所は、城攻めに参加すれば兄弟の争いとなるので自分が人質になって仲裁し、母上と崇められている自分には五奉行も手が出せないから、その間に家康は上洛してくるだろうとし、北政所の仲裁によって和議を結ばせて戦闘を回避させるという計略を授けた[75][注釈 29][78]が、すでに勝俊が京都新城に去っていたために策を果たせなかった。勝俊のこの行動は何の相談もない独断であり、(怒った)北政所は勝俊とは面会しなかったという[79]
木幡山伏見城の見取り図。上が東側。

秀秋は再三籠城側に入城を希望し、鳥居元忠に密使を送って家康との申合せがあるので東軍として籠城に加わりたいと申し出た[68][59][注釈 30]。この際、秀秋は実父家定を人質として差し出すという条件まで付けた[66]が、同じく東軍参戦を希望した島津惟新(義弘)同様、元忠は城内に入れるのを頑なに拒み、家康にその旨を伝えるに留めたため、入城は果たせなかった。やむを得ず、秀秋と惟新は一転して西軍として城攻めに参加することになる[59][81][65]。後の7月24日、鳥居元忠からの使者が東国に到着して、家康は軍議(小山評定)を開いたが、秀秋の入城申し出の話も、家臣伊豫田弥五左衛門によって報告された[68]

7月21日から8月1日にかけて小早川勢は北東の一角(松平家忠守備)の攻撃を担当し、先鋒松野主馬(重元)は火箭を用いて櫓楼を焼いた[82]。焼け跡から侵入した小早川隊は勇戦した[83]

8月1日未明、伏見城では西軍長束正家の調略によって寝返った甲賀兵が松の丸に火を付け、これが隣接する名古屋丸にも延焼。焼失した城壁から小早川・鍋島相良勢が相次いで侵入して松の丸・名古屋丸を占領した。これにより城は半ば陥落したも同然であったので、秀秋は休戦を申し込み、和議を成立させて助命の機会を与えようとしたが、元忠は頑なに拒否した。攻撃が再開されると、本丸に続き西の丸も陥落し、守将は尽く討ち死にした[84]

その後、秀秋は、家臣神谷清兵衛・斎藤与右衛門を使者として道阿弥・岡野江雪[注釈 31]のもとに派遣し、催促を断り難く心ならずも西軍に付いた、との事の顛末を弁明させて、決戦の際には必ず東軍に寝返り家康に忠節を尽くすと再び内応を約束した[85]

秀秋の虚病[編集]

伏見城攻略後、秀秋は宇喜多秀家に従って一旦、大坂城に帰還した。5日、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家らが伊勢安濃津城の戦い)に向かった[86]ので、秀家も大坂を出立したが、途中で使者を秀秋のもとに送って同行を誘い、伊勢から美濃へと進むようにと参陣を促したが、秀秋は部隊の再編と負傷者の手当を口実としてこれに加わらなかった[59][58][87]。この頃、秀秋は前述のように前線より退き、姫路城に下がって、離れた場所から天下を展望しようを考えていたようだが、城代を務める兄延俊から関係断絶を宣言されて実現しなかった[注釈 26][65]

仕方なく、秀秋は大坂城に10日以上も無為に逗留していたが、これを増田長盛[注釈 32]に咎められ、17日、催促された秀秋は不本意ながら大坂を出て伊勢路に向かった。津城攻囲参加を求められるがこれに従わず[66]、まず近江に進み石部で行軍を止めて10日間逗留。それから鈴鹿[注釈 33]に到り、5、6日留まってから中山道(近江)へ引き返し、日野愛知川を渡って高宮[注釈 34]で止まるという不可解な行程を辿って、病気療養と称した遊猟の日々を送った[59][58][87]

この間、西軍の石田三成は、それより前の8月10日に大垣城に入りし、島津惟新・豊久小西行長らを呼び寄せた。その後、東軍の先鋒が清洲城に集結したため、伊勢路でまだ攻囲戦中の宇喜多秀家らに速やかに濃尾に合流するように促し、瀬田橋の警備[注釈 35]も撤して合流するように命じた。

東軍でも、入念に内応を約束させていたはずの小早川秀秋が伏見城攻めで主要な役割を果たしたことに驚愕しており、岐阜城の戦いが行われた前後の8月28日、美濃赤坂(大垣市赤坂町)から黒田長政と浅野幸長の連署で秀秋に書状を記し、道阿弥の使者2名と共に送った[注釈 36]

尚々急ぎ御忠節尤に存候、以上
先書に雖申入候、重山道阿弥所より両人遣之候条、致啓上候、貴様何方に御座候共、此度御忠節肝要候、二三日中に内府公、御着に候条、其以前に御分別此処候、政所様へ相つゝき御馳走不申候ては、不叶両人に候問、如此候、早々返事示待候、委敷は口上に可得御意候、恐惶謹言。

八月廿八日                                   浅野左京夫(花押) 黒田甲斐守(花押)

 筑前中納言様    人々御中

— 小早川秀秋宛書状、出雲桑原文書[88]

上記のように「急ぎ御忠節尤もに存じ候」との書き出しから、家康が2、3日中にも到着するから(というのは早すぎる話だが)それより前に速やかに東軍に寝返るようにと催促し、「政所様へ相つづき御馳走申さず候ては叶わざり両人に候間」と自分達2人は北政所のために奔走しているのだから、秀秋がこれに協力するのは当然であり、家康に味方して忠節を尽くすことが(北政所にとって)重要であると説得するものだった[88]

この連書状は、北政所(高台院)と淀殿には確執が存在したと認定するもので、小早川秀秋の裏切りが不遇に追いやられた叔母・北政所の地位回復にあったという根拠とされるものである[89]。しかし白川亨三池純正らは「高台院は西軍を支持していた」と異論を唱えて、北政所と淀殿には確執はなかったと主張した。笠谷和比古はこれに反論し、「北の政所が家康を支持している」という類の文言は全くないというのは事実であるとしながらも、浅野・黒田両名は秀秋に裏切りを勧奨するに際して石高とか官位とか実利的条件は一切口にせず、ただ北政所の身の上だけに言及している点に留意して、北政所の実の甥である秀秋にとって、叔母を大切に思うならば家康側につくのが当然であるという内容の説得だったとする[89]。北政所のために東軍につけと直接言ってはいないのは、北政所と淀殿(三成側)の確執という問題が背景に確かにあったからであって、それは言う必要も無い当然のことだったからだというわけである。

岐阜城陥落後、石田三成は毛利輝元と秀頼の出陣を促すためにしばらく佐和山城に戻っていたが、9月3日、大谷吉継が北陸勢[注釈 37]を率いて美濃に入り、関ヶ原近くの山中村に陣を布き、7日には伊勢路より毛利秀元、吉川広家、長宗我部盛親、安国寺恵瓊、長束正家らが到着して南宮山に陣をしくなど、諸軍が集結したため、三成も再び大垣城に戻り、東西決戦が間近に迫った。まさにこの頃に秀秋は高宮[注釈 34]に留まっていたのであり、佐和山城を伺い、東軍に呼応しかねない不気味な存在であった[90]

『慶長年中卜斎記』[注釈 38]によれば、9月3日に小田原に到着した徳川家康は、秀秋の使者が来たと家臣永井右近(直勝)から報告を受けたが、「せがれの申事実儀にていなくば取あひばを無用(秀秋の言ってくる事は真実ではないので取り合う必要は無い)」と言って使者を放置させた[91]といい、家康は伏見城攻めに対してかなり立腹していたようである。このため北政所派の秀秋は、内実としては東西両軍の間で立つ瀬がない状態となっていた。

『関原軍記大成[注釈 39]』によると、宇喜多秀家[注釈 40]も、秀秋には別心があると疑っており、三成・惟新と協議して、平塚為広戸田重政を呼んで、彼らを秀秋の陣所(高宮)に送って対面させ、秀秋が裏切るつもりならば人質にとるかその場で刺殺するかするようにと指示した。両人は高宮の陣に着いたが、病が重く気分が優れないと面会を断られ、療養を続けたいが天下の大事なので近日中に大垣に下向するとだけ言付かって帰ってきた[92]。果たして4、5日後、秀秋は大垣に使者を送ってきたが、病を患ったがために不審を招き、別心がないことを示すためにこうして参陣したが、嫌疑の身であるから城外に陣を布くと言って入城しないと言ってきた[92]。それならばと、秀家は西方の松尾山の山麓に陣を布くように指示した[92][59]という。

もしくは、秀秋が近江柏原[注釈 41]に陣を進めると、石田三成らは謀議してこれを攻めようとしたので、稲葉正成ら家臣は協議して美濃に参陣することにした[93]ともいう。

別説に、秀秋が独断、もしくは稲葉正成ら家臣が協議して[注釈 42]軍勢を柏原に進め、そこから関ヶ原の南西にある松尾山に登り、すでに松尾山に陣取りをしていた西軍・伊藤盛正(長門守)を力づくで追い出して勝手に布陣したとするものがある[90][59]が、盛正を追い出したことで三成と対立した痕跡は見つかっておらず、小和田泰経は「やはり三成の了解を得ていたと考えるべき」としている[95]白峰旬も『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』の史料批判という観点から「伊藤盛正強制退去説というのも、一度白紙にして再検討すべきかもしれない」として、三成の了解があった可能性を指摘する[96]
松尾山城布陣[編集]

松尾山にはもともと松尾山城(長亭軒城)という山城跡があった。古くは美濃守護代富島氏の山城で、かつて浅井氏に仕えた樋口直房が砦としたものを、直房が織田信長に寝返った後、不破光治が預かって修築し、その転出後は廃城となって長らく放置されていた。中世の山城であるがゆえに、松尾山城は高所すぎて都戦には不向きな地位にあったが、当初は関ヶ原で野戦することが想定されていなかった。

9月12日付増田長盛宛石田三成書状というものに、三成の戦略の一端が披露されているが、以下、17ヶ条からなる内、関係ある部分を抜粋する。これは運んでいた使者が大津で東軍側に捕らわれて大坂に届かなかったとされるいわく付きの文書で、後年、『古今消息集』にその写しが収録された[97]。この書状は有名なものであるが、原本は存在せず、他の石田三成文書と文体が異なっていることが従前より指摘され、後世の偽文書である可能性[98]があると考えられていることも注記して置きたい。
(…中略…)

一、敵方へ人を付置聞申候。佐和山口より被出候衆の中、大人数もち、敵へ申談らるゝ子細候とて、此中相尋候。其故に勢州へ被出陣者も申留、各々面々在所在所に被相待候様にと、申談などと申。此二三日は頻にかげの口有之、敵方いさみ候ひつる。然るに江州之衆、悉山中へ被出候とて、かげ口違候様に、敵申候とて、唯今申来候。兎角今之世は、人質不入體に見え申候。終に出し候人質無御成敗候間、人質に不構も、無餘儀候事。
一、何れ之城之傳々にも、輝元御人数入被置候御分別、肝要に候。 此段子細有之候間、御分別あつて、勢州を初、太田駒野に今度城を構候能候はんと存候。江濃之境目、松尾之城、何れの御番所にも、中國衆入可置御分別、尤にて候。如何程慥成遠國衆にて候共、今時分は、國郡之心ざし有之付て、人之心難計候。御分別之前に候事。
一、當表の儀は、何とぞ諸侍心揃候はゞ、敵陣は廿日之中に破り候はん儀は、何れの道にも可多安儀に候へ共。此分にては結句味方中に不慮出来候はん體眼前に候。能々御分別肝要に候。羽兵入小攝なども、其被申様に候へども、適慮有之と見え申候。拙子儀は存知之たけ不残申候。
一、長大安國寺、存之外遠慮深く候。哀々貴所に當表之儀、一目御目に懸度候。扨々敵之うつけたる體。家中の不揃儀、思召之外に候へ共。それよりは、味方中、事をかしき體に候事。
一、輝元御出馬無之事、拙子體は尤と存候。家康不上には不入かと存候へ共、下々は此儀も不審たて申事に候事。

(…中略…)

— 『古今消息集』増田長盛宛石田三成書状より抜粋、『近世日本国民史』[99]
この文書の前段で、三成は、「ちゞみたる軆」で苅田にも出ない味方の萎縮、西軍の士気の低さを嘆いていて、長盛に対しても捕虜の妻子の扱いに苦言を呈し、3、5人程度斬ってしめしをつけろとしているが、「佐和山口」より来た「大人数もち」とは小早川秀秋の軍勢で、敵と内通していたのが公然の秘密とされていたと述べている。一方で、毛利輝元の軍勢を、各城に入れるべきとし、「松尾之城」も「中国衆」を入れるとしていた。石田三成の戦略では、毛利輝元か秀元等の軍勢をさすと思われる中国衆(中国勢)が、美濃と伊勢の境に位置するこの城で、上洛しようとする家康の軍勢に対して20日間ほど籠城して足止めしている間に、各地に展開する西軍の諸勢力を集結させて東軍を破るという計画で[100]、三成は西軍の総大将・毛利輝元が出陣した場合もしくは毛利勢の主力が入る場合に備えてその陣所とするために松尾山新城として築城普請を進めさせたのである。
松尾山にある関ヶ原の戦いの小早川秀秋陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町

三成の要請で大垣城を西軍に明け渡して退去した[注釈 43]伊藤盛正は、その後、美濃今村城に入ったが、東軍が西上してきて8月17日に敗れ、大垣城に舞い戻って来る。盥回しの末、再度の要請を受ける形でこの松尾山へ転じるが、すでに8月1日には普請は始まっており[102]、盛正はその途中で入ったことになる。なお、松尾山城修築に関する具休的な工期や修築を負担した部将は不明である[96]。約1ヶ月後、盛正はさらに松尾山からも出て行くことなるが、織田信高岸田忠氏ら秀頼摩下の黄母衣衆と共に配置され、本戦を迎えた。

『関ヶ原記大全』はその密書が大坂に届かずに、東軍に手に渡って計画は未遂に終わったとされるが[100]、再三の要請にもかかわらず輝元が出陣を渋ったために、やむを得ず、秀秋を入れたともいう[95]

9月14日、家康が赤坂の岡山本陣に着陣した同じ日に、秀秋も松尾山の頂きに布陣した。小早川勢は8,000[103][注釈 44]とも、1万1,000[95]ともいう。これに従って、脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保の諸将も松尾山の山麓に陣を移した[106]。彼ら北陸勢[注釈 37]の一部は、それまでは吉継と同じ山中村に陣をしいていたが、秀秋の松尾山入りと同時に麓に陣替えを行った。このことから秀秋とは何らかの密約があったようである[107]

白峰旬は、秀秋の松尾山入城は長期的な戦略に基づくものではなく、三成など西軍からの秀秋の陣への襲撃を避けるための緊急避難的な措置であったとする。伊藤盛正を強制的に立ち退かせたのも、盛正が信用できなかったからで、籠城するような形で松尾山城に入城したのであって、積極的に戦闘に参加する意思が最初からなかった秀秋は、戦局の推移が十分に把握できずにいて、「当初動かなかったのではなく、動けなかったというのが真相だったのではないだろうか」というのである。西軍も端っから小早川勢を戦力として期待せず、9月15日の時点では秀秋は西軍に属していたと考えるのは妥当ではなく、かといって、積極的に東軍に参加していたわけでもなかったという[108]
東西両軍からの勧誘[編集]

『関原軍記大成[注釈 45]』によると、同日の杭瀬川の戦いの後、安国寺恵瓊は南宮山から下りて石田三成の陣所に来て、秀秋らの旗幟を問いただすべきと献言した[109][注釈 46]。西軍首脳陣は宇喜多秀家の陣所で協議して、秀秋のもとに滝川豊前守(忠征)と某[注釈 47]の2名を派遣し、杭瀬川の戦いで家康の先手衆を打ち崩したことを説明させ、戦後の報酬として秀秋に豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、近江、播磨一円での大幅な加増を約束する旨を、秀家[注釈 48]、恵瓊・大谷吉継(刑部少輔)・三成(治部少輔)・長束正家(大蔵少輔)・小西行長(摂津守)が連判した誓紙として認めて渡し、秀秋家老の稲葉・平岡にも金子と加増を約束して、西軍への忠節を勧めさせた[111]

一、今度忠義を於盡給者、秀頼公、十五歳被成候迄、関白職秀秋殿へ可譲渡事。                      
一、上方之為御賄、播州一圓可相渡候。勿論筑前筑後者、為前事。
一、於江州十萬石。同國に稲葉内匠平岡牛右衛門に、従秀頼公、十萬石宛可下事。
一、当座に為御音(喜)物、金子三百枚、稲葉、平岡にも可下候事。
右之通偽有之候者、日本之神罰被可蒙者也。為に連判申合候條如件。委細両使可申者也。

九月十四日                                    安国寺(判)刑部少輔(判)治部少輔(判)大蔵少輔(判)摂津守(判)
秀秋卿 — 『石卵餘史』[106]『関原軍記大成』[111]
ただしこの史料は、正徳3年(1713年)成立の『関原軍記大成』や『石卵餘史』に収録された書状であって、原本は確認されておらず、文体に不審な点があることから偽文書の可能性があると指摘される[112]
秀頼は当時関白の地位になく、内大臣(家康)以外、摂関、太政大臣などはすべて空席であったにも関わらず、関白職を「譲渡」するという表現が奇妙であること、使者とされた滝川豊前守が安濃津城の城番の1人として当時伊勢にいたと思われることを理由に、『関原軍記大成』の編者黒川真道すら、後人の作り話ではないかと偽書説を注記して書いているほどだ[111]。ただし、黒川は関白職を天下の意味で用いていることをもって「疑わしい」とするが、(大正時代には一般的でなかったが現在は定説である)武家関白制の考えからは関白職こそ豊臣政権での天下人の持ち回りであり(実際に秀秋を関白にできたかどうかは別にして、大盤振る舞いの甘言と考えれば)特にそれが矛盾するということではない。
小和田哲男はこの文書の真偽に疑わしい点があることを認めつつも、つなぎ止め工作に色々と恩賞を用意していたことは充分に推測されるので、このような密約もあり得ただろうという立場を取っている[113]。多くの現代の歴史学者も概ね後者に同調して、連判状の真偽はともかく、西軍と秀秋との間の密約はあったという見解をとっている。

これに対して東軍でも、14日付で本多忠勝井伊直政の両名を介して誓書を出し、平岡・稲葉に恩賞の約束をしていた。家康(内府)は(伏見城攻撃など)これまでのことを根に持っておらず、忠節に励めば、上方で二カ国を与えるという内容であった[114]。(加増の話を除いて)ほぼ同様の内容の誓書が吉川広家にも出された[115]。第一条は、前述のように9月3日に使者が追い返され、家康が激怒している様子を小早川陣営が察していたことを、誤解であると取り繕うもののようである[注釈 49]

起請文前書の事
一、對秀秋卿聊以いささかも、内府御如在じょさい有聞しく事。
一、御両人、別被對内府御忠節之上以来、内府御如在被存間鋪事。
一、御忠節相究候者、於上方両國之墨附、秀秋へ取候之事。
右三箇条、両人請取申候。若於為申者、もったいなくも梵天帝釋四天王、総日本国中大小神祇じんぎ、別八幡大菩薩・熊野三所権現・加茂・春日・北野天満大自在天神・愛宕山大権現可御罰者也。仍起請文如件。

慶長五年九月十四日              本多中務大輔忠勝 血判
井伊兵部少輔直政 血判
平岡石見守殿、稲葉佐渡守殿 — 『関原軍記大成』[116]

14日夜、『関原軍記大成』によれば、黒田長政家臣の菅六之助(正利)は君命を受け、吉田宮内、大久保伊之助(猪之助か)を誘って、秀秋陣所・松尾山に登り、平岡石見守に会って、寝返りの計略をつぶさに聞いた。松尾山に吉田・大久保両名を残し、石見守の弟出羽守(資重)を連れて、東軍の陣所であった岡山本陣に帰還した。菅六之助が14日夜に松尾山に登った話は菅の家譜にも記されているという[117]

同じ夜、大谷吉継も秀秋の陣に赴いて、これまでの行動に対して苦言を呈し、説得を試みた。秀秋の家老である稲葉正成・平岡頼勝の両名も同席して主人を弁護し、「全く黄門には病の為に、出馬の期を失し、種々の嫌疑を生じたのである、決してご心配くださるな」と言った。吉継は「黄門は年少であるから、恐らくは奸人の為に、誘惑されるであろう、君等は宜しく警戒して油断あるな」と言い残して去ったが、吉継は、秀秋の態度に疑念をぬぐいきれず、自ら秀秋の裏切りに備えるべきであると覚悟した[118]という。

なぜ西軍主力は大垣城を出たのか[編集]

大谷吉継の陣は麓の山中村にあり、秀秋の陣所に対峙する形になっていた[注釈 50]。そこで吉継は三成に書を送り、「秀秋正午に来たりて松尾山に陣するも、態度怪しむべきものあり、宜しく秀秋を牽制しつゝ関原の要地に東軍を激撃ようげきせん」と提案し、大垣城に守備を残して主力を関ヶ原に展開するように勧めた[120]。一方で楽田村に陣する島津惟新も、豊久を三成のもとに派遣して家康本陣への夜襲を提案した[120]。三成は惟新の策には応じずに、福原長堯ら諸将、兵7,500を大垣城に残して退陣し、深夜にかけて諸隊を16キロ離れた関ヶ原へと行軍させた[121]。15日未明、(従来説では)笹尾山に布陣した三成[注釈 51]は、吉継・秀家らと軍議を開いた後、秀秋の陣所に向かったが、稲葉正成の意向で秀秋本人に面会することが出来なかった。代わりに平岡頼勝と面談して、狼煙を合図に小早川隊が東軍を攻撃することを約束させるに留まった[122][123]。こうして西軍は小早川秀秋の向背が明らかにならないまま、東軍との決戦に突入することになった[122]というのが従来説である。

しかし西軍主力が大垣城を出た理由と、大垣城からどのルートを通って、どこに向かったかについては、はっきり分かっているわけではない。またそれらについて、すでに小早川秀秋の裏切りが露見していたことと深い関係があるらしいことが最近の研究で明らかになりつつある。



しかし

帰趨が明らかではなかったという従来説とは異なり、

東軍への寝返り[編集]

従来説に基づく
『関ヶ原の戦い午前中の戦況』(左下が松尾山)
最近の研究では石田三成は笹尾山には陣をしていておらず、西軍諸隊は、鶴翼ではなく、天満山の南、山中村の周辺に縦深配置されていたらしいが、地名を参照するための地図として掲示する。
従来説[編集]

石田三成の見解は、

また、松尾山は12日の時点で「中国勢を置く」との増田長盛宛石田三成書状が確認されており、それまで陣取りしていた大垣城主・伊藤盛正を追い出して着陣している。関ヶ原決戦が計画的なものでなく、突発的なものであったとする説では、石田三成は小早川秀秋が松尾山に陣取ったことで腹背に脅威を得、大垣城を出ざるを得なかったとする。


秀康付き家老だった奥平貞治(藤兵衛)が秀秋の軍監(目付)として派遣され、また黒田長政も家臣大久保猪之助を秀秋の陣中に目付として送った[70]が、両名で秀秋の行動を監視することになった。


関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろであり、午前中は西軍有利に戦況が進展する中、傍観していた。度々使者を送ったにも関わらず傍観し続ける秀秋に家康は苛立っていた[注釈 52]といい、秀秋の陣へ鉄砲を撃ち掛けたとも言う。

こうしたやり取りはありながらも、秀秋は最終的には家康の催促に応じ、松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。この際、小早川勢で一手の大将を務めていた松野重元は主君の離反に納得できなかった為、無断で撤退している。

秀秋に攻めかかられた大谷勢は寡兵ながらも平塚為広戸田勝成とともによく戦って小早川勢を食い止めたが、秀秋の離反から連鎖的に生じた脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保らの離反を受け、大谷・平塚・戸田の諸将は討死した。


「問い鉄砲」[編集]
よく知られた関ヶ原の戦いの逸話として「問い鉄砲(誘い鉄砲)」があるが、これの原典は『黒田家譜』という貝原益軒が編纂した二次史料であり、元禄元年(1688年)頃に成立したものである。同家譜において該当部分の主人公は黒田長政であり、その剛毅さを伝えるものであるから、秀秋は登場もしないし、言及もされていない。また下記のように小早川隊は「問い鉄砲」に反応を示したわけでもなく、平岡頼勝に無視されている。少し長いが、内容は次のようになる。
関ヶ原戦陣図屏風右隻(福岡市博物館蔵)の一部。 左が松尾山で、小早川秀秋、奥平藤兵衛、松野主馬など。右が家康が送った鉄砲隊である。

15日の辰の刻(8時頃から9時)に戦闘が始まって、巳、午(10時から12時)になろうとしていたが、勝敗は何れに決するかまだはっきり分からなかった。家康の旗本・久保島孫兵衛が馳せて来て、秀秋が裏切る様子は見えないと報告したので、家康は、もし小早川秀秋が裏切らない場合は、毛利秀元や吉川広家も裏切る約束を破ることになるに違いないと考え、苦慮した。家康は若い頃より味方が苦戦している時には指を噛む癖があったが、この時も頻りに指を噛んで「倅めに計れた」と言って悔しがっていたが、しばらくして「それならば秀秋の陣に向けて誘い鉄砲を撃ちかけてみろ」と命じたので、久保島は自ら本陣から走り出て命令を伝えたところ、家康の鉄砲頭・布施孫兵衛、福島正則の鉄砲頭・堀田勘右衛門の2人が、鉄砲足軽10人ほどに対して松尾山に向けて連べ打ちをさせた。この時、長政家臣の大久保猪之助は秀秋の陣にいたが、猪之助は平岡頼勝に近づくと草摺[注釈 53]を取って「戦が始まってすでに勝負所となっているのに、まだ裏切りの指示を出さないのは不審である。もし甲斐守(長政)を騙すつもりならば、刺し違えるつもりだ」と言って腰の刀の柄に手を掛けたが、頼勝は全く動じること無く、「攻撃をする汐合いは我らに任せろ」といって無視した。同じ頃、家康の使番・山上郷右衛門が長政の陣にやってきて、馬上から「甲州甲州、筑前中納言の裏切りは間違いないか」と大声で聞いたが、長政は「中納言の裏切りがあるかないかは、そちらと同様に知る術はない。しかし秀秋がもし人質の命を捨てて我らを欺き、宇喜多、石田の味方をして家康公に敵対したからといっても、どうということはない。(黒田隊が)対峙している石田をすぐに打ち崩せれば、それから秀秋、秀家を討ち果たしても手間は掛からない。今は石田隊への攻撃に集中すべきである」とこともなげに言い返した。山上がこれを家康に伝言すると、家康は長政は常に英気があるといって喜んだ。長政は(家康の伝令であることに慮って直言しなかったが)山上が去った後に、独り言で馬上から詰問した山上の無礼に身分を弁えぬ態度であったとたいそう憤慨した[124][125]

『関原軍記大成』ではこの話に続いて、「斯くて平岡石見・稲葉佐渡、誘い鉄砲にや驚きけん。又は時刻を計りしにや。俄に秀秋の軍使を呼びて、裏切せらるべき御内通あり。(このようなことがあった後で、平岡・稲葉は誘い鉄砲に驚いたのだろうか、それとも頃合いを見計らっていたのだろうか。急に秀秋の軍使を呼びつけて裏切りを行うという内意を伝えた。)」とあり{{sfn|宮川|1916|p=171|ref=n3}、『黒田家譜』では無視されたものが、誘い鉄砲(問い鉄砲)が直接的な要因となって小早川隊が決断したのかどうか曖昧にされている。
問い鉄砲で秀秋がうろたえたなどは、端から小説によるフィクションであるが、その原典は『備前老人物語』であろうか。内容は以下。


[126]


「問い鉄砲」の史実性に関して、藤本正行は、信用できる一次史料によっては威嚇射撃は裏付けることはできないことを指摘して、家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいないと早くに主張した[127]。また他の研究でも、実地調査で、地理的条件や当時使用されていた銃の銃声の大きさや、現場は合戦中であり騒々しいことから推測すると、秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかった、もしくは家康からの銃撃であるとは識別できなかった可能性が高いことが指摘された[128]
新説・開戦時に即離反[編集]

論功行賞[編集]

夕刻もしくは正午までには、西軍は壊滅し、諸将は散り散りになって潰走して、石田三成も大坂を目指して伊吹山中へと逃亡した。

家康は本陣より使者・村越直吉を送り、秀秋が約束を違わず軍忠を尽くしたことを喜んでいる旨を伝えさせた。直吉に案内され、秀秋は脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠(忠有)を連れて家康本陣へと伺候し、その席で石田三成の本拠佐和山城攻めを命じられた[129]

16日、秀秋・元綱・安治ら寝返り組と、井伊直政田中吉政宮部長熙ら東軍は、佐和山城の攻撃に向かい、17日に強襲して、城内の長谷川守知を内応させて半日でこれを陥落させた。石田正継正澄重成朝成重家宇田頼忠ら三成の家族は共に討ち死にもしくは自害した。佐和山城は徳川方が接収した。

18日、近江八幡山に到着した家康は、秀秋に備前を与えることを決め、大坂に進軍すると指令した[130]

19日、西洞院時慶の『時慶記』によれば、秀秋はこの後一足先に上洛して、京都新城から勧修寺御所(後陽成天皇の生母・勧修寺晴子邸)に避難していた高台院のもとへ駆けつけた[131]

なお、『常山紀談』等に、捕まった三成が大津に連れて来られた際に、秀秋(秀詮)が細川忠興が「益無き事なり」と制止するのも聞かずに対面して、三成に「我汝が二心有るを知らざりしは愚なり。されども約に違ひ義を棄て、人を欺きて裏切したるは武将の恥辱、末の世までも語り傳へて笑うべし」[132]と嘲笑されたり、福島正則が三成を詰って反対に三成に言い返されたという逸話があるが、これらはすべて虚構である。史料から判断して、秀秋、正則、長政、忠興らは、三成が捕らわれた22、23日には大津にはいなかった[133]。三成はその後、京都につれてこられて10月1日に六条河原で斬首されているので、秀秋が会いに行った可能性がないわけではないが、秀秋を諫めたとされる忠興は、22日に丹波亀山へ、23日には丹後生野へ、28日からは10月半ばまで小野木重勝福知山城を攻撃しており[134]、少なくとも、逸話にあるような状況は成立し得ない。

24日、『木下家文書』によると、家康は「向後武蔵守同前ニ存、不疎略候(今後は息子である武蔵守秀忠と同じように思って、決して疎略に扱うことはない)」[135]と最大級の評価で感状を出した。

『備前軍記』によれば、秀秋は旧・宇喜多秀家領の全てを恩賞にと望んでいたが、備前国だけということがで不満であった。それを知った家康は備前に加えて美作国を与えるとした[136][137]

10月5日[136][137]、こうして秀秋は、備前と美作国と備中国東半にまたがる旧・宇喜多秀家領の岡山藩55万石に加増・移封された[138]。一説に播磨国佐用郡宍粟郡赤穂郡の3郡も含まれたとするものがあるが、『備前軍記』によればこれは誤説で、池田輝政の領という[139][137][注釈 54]

上方二カ国の恩賞という約束は守られたことになった。秀秋を離反させただけでなく合戦でも先手を務めた功労者である黒田長政は、故郷である備前の代わりに、秀秋が出て行った筑前へと(豊前中津から)玉突きで移封された。

岡山藩初代藩主[編集]

備前国岡山城図〔日本古城絵図〕

10月24日、家老平岡頼勝がまず先に岡山に到着して、宇喜多家旧臣(東軍で参加)の戸川肥後守宇喜多左京亮より、岡山城を預かった[139][137]。11月11日、秀秋は異母兄・木下俊定小出吉政の元養子)が関ヶ原で改易されて失領したため、これに知行を与えて家臣とした[140]

慶長6年(1601年)春、秀秋も領国に入国を果たした[139][137]。岡山城主となったこの頃に、秀秋から秀詮へと改名している[138]

秀詮は入国後、国内の仕置を稲葉正成・杉原紀伊守(重政)に任せ、備前・美作の田地の境界を改定して、検地を行い、石高を定めた。寺社領を改め、寄附状を発給した[139][137]。将軍家より国内の城塞の破却を命じられたので、備前沼城備前富山城等が壊され、金川城常山城虎倉城のみ残された[139][137][注釈 55]。また、岡山城は改修工事が行われ、沼城の天守閣、富山城の楼門などが移築された。さらに公儀の許可を得て、城外に外堀が掘られた。北は伊勢宮、西は中山下、下は天瀬町の外まで、15町余の堀を作って三之曲輪としたが、これは工期が20日であったことから、廿日堀と呼ばれた[141]

一方で、『備前軍記』によれば、秀詮は鷹狩りに呆けて政治を疎かにし、(かつ酒乱の癖があって)罪な無き者を殺すことがあった。それで両家老の稲葉正成と杉原重政は諫言した。特に重政が強く諫言したところ、秀詮は激怒して村山越中守[注釈 56]に重政の誅殺を命じた。秀詮は次に重政が登城して、自分の前に来て退出したその後でやるようにと言い含めて、越中守を本丸と二の丸の間の廊下に待機させていた。ところが、対面した重政が言うことに心のわだかまりが解けた秀詮は、斬るには及ばないと思い直して、小姓に命じて越中守に中止するように伝言させた。しかし小姓は行き違いになって廊下を玄関まで行っても越中守を見つけられなかった。その間に、重政は退出し、廊下で声を掛けられた越中守に斬り殺された。実は越中守は慌てて小姓が走って来るのを見て中止であろうとを察したが、もともと重政と不仲であったのでこれを機に殺害しようと思い、小姓が通った際には隠れてやり過ごし、越中守は敢えて重政を誅殺したのであった。重政の子、加賀守にも切腹が命じられた[141]

杉原親子が上意討ちされたのを知ると、稲葉正成は次は自分の身に禍が降りかかると考え、夜中に妻子をつれて出奔した[141]。『中興武家盛衰記』によれば、正成の一族である義兄・斎藤角右衛門(斎藤利三の三男)と(正成の娘婿)堀田正利(正吉)も出奔したという。再び『備前軍記』に戻るが、正成は備中庭瀬藩主となった戸川達安と懇意にしていたので、庭瀬に逃れようとした。戸川も宇喜多家浪人を4、50人集めて、追手があれば防戦する準備をしていたが、岡山からの追手はなく、一行は無事に庭瀬に到着し、達安に礼をして、そこから大坂に渡った[142][注釈 57]

両家老がいなくなった小早川家中は騒ぎとなった。松野主馬(道円)は伏見に同行していた際が、枚方宿で姿をくらまして出奔した。主馬組の鉄砲頭・蟹江彦右衛門は虎倉城にいたが、これを聞いて城を捨てて退去した。滝川出雲守(辰政)も同家を離れようとしたが、押し留めるために鉄砲足軽を屋敷に配置して監禁するように命令が出た。しかし警備が付く前に出雲守は女乗物に乗って脱出した。出雲守の家来は、主人が十分に離れた頃合いを見て、屋敷の門を開けて、警備の鉄砲足軽衆の鉄砲頭に事の次第を説明し、出雲守の家来が全て逃げ去ったとあっては外聞がよくないといって、その家来は切腹して果てた。鉄砲頭は家来の首をもって帰ったという[143]

11月21日、家老・稲葉正成等が小早川家を出奔した騒動について、秀詮は浅野長政に家康への取り成しを依頼している[144]が、黒田基樹はこの背景に旧来の家臣団層と新たに台頭してきた側近層との対立が背景にあったのだろうと推測する[145]

「魁題百撰相 金吾中納言秀秋」(月岡芳年画)にて祟りに怯える秀秋

なお、『林羅山文集』や(秀詮の長兄)木下長嘯子の『挙白集』によれば、杉原重政が斬られた場所は、二の丸の台所の辺りで、本丸に通じる廊下や塀に血が飛び散った跡が残っていたので、一年後に廊下ごと取り除かれたという。その後、重政の霊が夜な夜な姿を現すという話があり、秀詮も病気になったが、村山越中守が登城しているときにはその症状は現れなかったという。しかししばらくして病気が重くなったので、蓮昌寺の僧に祈祷をさせると、霊は現れなくなり、病気も治ったということが寺伝にある。これを機に秀詮は日蓮宗を信心するようになり、(岡山城改修に伴い)森下村にあった同寺は城下の西新堀に移され、仏殿等は大きく盛大にされた[146]

閏11月2日、秀詮は(石田旧臣の)南部紀伊守に知行を与えて家臣とした[147]。慶長7年(1602年)6月23日、秀詮は、家臣の知行割り当てを定めた[148]。9月3日、(関ヶ原で失領した毛利勝信の弟)毛利出羽守(吉雄)に知行を与えて家臣としている[149]

早世と無嗣改易[編集]

慶長7年(1602年)、10月15日に前述の異母兄・俊定が亡くなり[150]、3日後の10月18日に秀詮も21歳で急死した[129]

吉田兼見の弟)僧・梵舜の『舜旧記』では「同月ニ兄弟三人病死也、諸人不思議ト申ス」とあるが、これは誤伝であり、兄弟中でこの月に亡くなったのは2人だけである[151]

『木下家文書』にある僧・道澄[注釈 58]の追悼文によると、秀詮は近年は体調が悪く塞ぎ込んでいたが、ようやく気分が落ち着いたというので岡山に帰った。10月15日に鷹狩りに出て日没に帰城したが、気分が悪いと横になって後、翌日には意識混濁の状態となる。近習は慌てて京都に使いを立てたりしていると、17日にはいくらか快方に向かい、顔色も良くなったが、その夜更けに再び重篤となって帰らぬ人となった、という[注釈 59]

秀詮の死は(当時は)原因不明の病死[153]とされたが、尋常ならざる死に方だったようで「狂死」と表現されたりもしている[153]。しかし当時の人々は、説明の付かない死を、すぐに怨霊や天罰のせいとしたのであり、検証が必要であろう。

秀詮は世継ぎを残さず、また急死のため養子をとることも出来なかったので、小早川家は無嗣断絶により改易となった。これは徳川幕府における最初の無嗣改易である。この結果、名門・小早川家も断家となったが、小早川家は、秀秋による断絶の数百年後の明治12年、毛利本家が願い出て再興の勅命をもらい、長州藩最後の藩主毛利元徳の子息を立てて再興されている[154]

秀詮の遺臣たちは、関ヶ原での裏切りを責められたため仕官先がなかったなどと言われることがあるが、それは誤伝である。慶長8年8月30日、宇喜多家旧臣(花房正成岡家俊)と共に、平岡頼勝は幕府に召し出されて[155]、1万石の扶持を与えられて大名とされ、美濃で立藩している。他にも前田家や紀伊徳川家の家臣となった者もいる[156]し、家老・伊岐真利のように岡山に留まって次の岡山藩主の池田忠継に仕えたものも多かった。

死にまつわる巷説[編集]

秀秋(※この節では秀詮ではなく話に登場する名である秀秋とする)の早世に関しては様々な書かれ方をしており、死因や死に様も様々である。いくつかは単なる巷説であり、信憑性については出典となっている話を収録した二次史料自身にすら疑問であると書かれていることには注意が必要だが、以下にまとめる。

『備前軍記』は、秀秋に諫言する者もなく、生活は乱れ、我が儘し放題だったために、慶長7年冬の急死も、横死であったとしている。まず大蛇の祟りを示し、秀秋が時々異常な行動を取ったとする[157]

慶長6年の冬、牧石[注釈 60]で鷹狩りをした帰りに、龍口山で大松にまとわる大蛇を見つけて、秀秋が誰かあれを斬れと命じ、ある者が進み出て、川を渡り、大蛇と格闘して、これを斬った。秀秋は大変に喜んだ。その後、秀秋は時々異常な振る舞いをするようになった。ある時、放鷹の際に俄雨に遭って、民家に入って雨宿りをしたが、児小姓の火起こしが遅いと言って脇差しを抜いて首を斬った。ある時は、民家に入った時に(自分で)鴨居で頭を打ったのに怒り狂い、家を建てた大工を成敗するといって大工の召し捕りを命じたが、狩りの結果が良かったので、「必要ない、ゆるせ、ゆるせ」と言って大工を帰したりもした[157]

その上で、どういう横死だったのか定かではないとしつつも、『備前軍記』はその最期として下記の4説を挙げている[157]

  1. 鷹狩りの際に1人の百姓に斬り殺すと言ったので、その百姓が伏して大変に悲しんでいると、秀秋は笑って刀を抜き、戯れに百姓に切り傷を付けて弄んだので、その百姓は起き上がって秀秋の陰嚢を力一杯蹴り上げた。秀秋は悶絶して即死した[157]
  2. 山伏を訴訟のために呼び出したが、訴因を吟味することなく、秀秋が両手を切り落とさせたので、怒った山伏は秀秋に飛びかかって、秀秋を踏み殺した[158]
  3. 児小姓を手打ちにするとして斬りかかり、返り討ちに遭った[158]
  4. 昔より殺生を禁じてある西大寺の御堂の下(の川)に網を入れて鮒を多く捕って帰ったところ、広谷[注釈 61]の橋で落馬して死んだ[158]

『備前軍記』は死因は疱瘡であると発表されて真実は隠されたとし、どれが正しい話か知る者はいないと結んでいる[157]

上記4は、『和気絹』[注釈 62]が出典のようだが、内容が少し異なり、網を入れたのは殺生が禁じられていた西大寺の上下一町の区間の東川であるとし、秀秋は落馬した上に疱瘡を患い、治療の甲斐なく亡くなったとし、捕まえた魚は元の川に還したという。ただし、『岡山市史』の編者は、秀秋自身が両家老に命じて西大寺に禁制を発給して殺生を禁じ、寺領500石を寄進し、寺社改修でも100石を奉納していたことを一次史料で示し、信じ深かった秀秋が禁制を犯して仏罰で病死したとは「疑わしき事なり」と書いている[159]

『関原軍記大成』は「俗本に」と断った上で、以下の話を載せる。

関ヶ原の合戦(9月15日)で大谷吉隆(吉継)は自害の時に、秀秋の陣に向かって「(秀秋は)人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹した。大谷の死霊が秀秋の目を曇らせ、杉原下野という忠臣を村山越中に誅させたので、下野の霊が出るようになって、越中は怪奇を見るようになった。越中が怒って刀に手を掛けるとすると、霊鬼は怒ったが消えた。それで越中は大谷の祟りが出てときにも同じようにしたが、大谷の霊は恐れず、越中が首をかしげていると、大谷自害より3年にあたる7月15日に秀秋は狂乱し、刀を抜いて辺りを切り払うようにしていたが、その日のうちに亡くなった。大谷自害の時に(秀秋に)3年は過ごさせない言い残していたが、月は違ったものの日は同じであって、恐るべきことであった[160]

その上で『関原軍記大成』は、秀秋は「血の流るゝ病気」によって慶長7年10月18日に亡くなったのであると指摘して、7月15日に狂乱して死去したとは辻褄が合わないとし、さらに続け、大谷刑部・杉原下野の霊鬼が祟りをなしたとしているが秀秋の病乱は知られておらず、つまりは「大様偽りなり」とほぼ完全否定し、後に数行も用いて怪奇話を断罪している[160]。大谷吉継の祟りの話は有名だが、出典元とされる植木悦の『慶長軍記』(寛文8年序)は小説と言って良い類の軍記物であり、(史料と史料でないものを玉石混淆でまとめている)『関原軍記大成』すら、大批判していることはほとんど知られていない。

死因の推測[編集]

小和田哲男は、秀秋の死の前の異常な行動を、関ヶ原の自分の裏切り行為に対し、良心の呵責に耐えられなくなり、一種のノイローゼ状態から心身喪失の状態に進み、「祟りによって呪い殺された」ではなく、秀秋自身の心の病気が真因だったと見る[153]と書いているが、このような心証をもつ史学者は少なくないものの、しかしそれでは突然の死を説明することは出来ない。

『備前軍記』が挙げた1から3の最期は、前述の一次史料の死の状況と合致しないように思われる。『和気絹』は地元の伝承を集めたものであるから、仏罰はともかく、もしかしたら死の前日に落馬したということはあったのかもしれない。また前述のように、一次史料によれば、疱瘡はすでに7年前に罹患して治癒しており、また発症して急に死ぬとは考え難いだろう。『関原軍記大成』のいう「血の流るゝ病気」が何を指すか、何を出典としているのかは不明である。

瑞雲寺の墓碑

曲直瀬玄朔の『医学天正記』によれば、秀秋はしばしば体調不良を訴えており、関ヶ原の年に診察をうけた記録が残っている。それによると「岡山中納言秀秋公 十八九才 酒疸一身黄心下堅満而痛 不飲食渇甚(秀秋は全身が黄色く、心下(心窩部)が硬く腫れて痛みがあり、飲食ができず、激しいのどの渇きがあった)」[161]とあり、アルコール性の肝障害の症状を示し、すでに19歳で酒色(アルコール依存症)による重症の肝障害であったようだ。同年二回目の診察の記録では、「備前中納言秀秋公 年十八九才 酒渇嘔吐胸中煩悶全不食 尿赤舌焦乾脈細数(秀秋は大酒の後、嘔吐し胸痛を訴え、食べることができなかった。尿が赤く舌が渇き徐脈)」[161]とあり、高ビリルビン血症のために尿が赤レンガのような色になり、秀秋はアルコール性肝硬変となっていたらしい。脳神経外科医の若林利光は、この診察記録に基づき現代医学の見地から診断して、「19歳で黄疸が出るほどの病状だったのだから、その後2年もあれば肝硬変がさらに悪化し死に至った可能性は高い」と主張し、死因は肝硬変であり、肝性脳症による異常行動を示した可能性があるともした[161]

肝硬変の原因はアルコール以外にも(当時の医師が知りようがない)肝癌やウイルス性肝炎などもあるので、「酒疸」「酒渇」の語だけで酒が原因と必ずしも断定できるわけではないが、肝臓の病気ならば、数年来の不調と急死という死の状況とも特に矛盾しないように思われる。

墓所[編集]

秀詮の遺骸は、岡山の満願山成就寺に葬られた。法号(日蓮宗)は瑞雲院殿前黄門秀巌日詮大居士。成就寺はこの法号にあやかって寺を黄門山瑞雲寺と名を改めて、菩提所とされた。瑞雲寺では、金吾中納言秀詮の霊を祀るだけではなく、肥後熊本から加藤清正の像も祀られており、往時は栄えて、「備前岡山三番町瑞雲寺、肥後からござった清正公せいしょこう、コチャ、ゐざりが三人立ちました、コチヤエー、コチヤエー」と俚謡にも歌われ、霊験あらたかなりと信仰を集めていたが、のち廃れた[162]。現在、瑞雲寺では、墓碑は墓塔の中にあって通常非公開だが、秀詮の命日に1日だけ墓塔の開扉が行われて一般公開されている。

また、京都の大本山本圀寺にも分骨された。本禅寺十世・日求にちぐが秀詮の菩提を弔うために、本圀寺の塔頭玉陽院を改めて、大光山瑞雲院とし、木像等を収めて開創した。同寺は、秀秋の祭祀料として徳川家康が寺領100石を与えたのに因んで、百石寺とも称される。

子孫[編集]

系図では、しばしば母の身分の低い庶子、特に女子は無視されるが、小早川秀秋には庶出の女児が少なくとも一人はいたらしい。また幕末期の備中国に秀秋の庶出の男児がいたと主張した郷土史家がいたが、当人はその子孫ではなく、庶子は夭折してやはり断絶したとはっきり主張していた。

  • 正室であった古満姫(長寿院)は毛利輝元の養女であり、文禄3年(1594年)秀秋の小早川家への養子入りにともなって結婚したものであるが、この結婚は毛利家にとって気苦労の多いものだったらしい。秀吉の死で情勢が変化したことにより、慶長4年(1598年)9月頃、秀秋と別の女性の間に子供が生まれ、これに家康が介入し、江戸下向を勧めたことを契機として、同年中に離縁がまとまり実家に帰ったようである。秀秋生前の慶長7年(1602年)8月12日、まだ若かった古満姫は、興正寺18世・准尊(名は昭玄)に再嫁している[2][163]
    • 上記の娘と同一かどうかはわからないが、横田冬彦は秀吉朱印状を解釈しなおして、従来、織田信長の子で秀吉養子の羽柴秀勝(於次秀勝)の娘と考えられていた女性を、秀詮の娘とする説を発表している[164]。於次秀勝と秀詮は、共に「丹波中納言」と呼ばれ、妻が毛利輝元の養女であるなど、共通点が多く、混同は十分にあり得る。なお、この娘は播磨佐用郡の田住家に嫁いだという。
  • 備中足守藩士の吉田源五兵衛方行の次男で、土肥氏の養子となって継ぎ[注釈 63]、幼名を米之丞、名を太平太という人物は、晩年は隼人を称し、天柱を号したが、さらに後に小早川氏を冒し[注釈 64]、秀雄と名を改めた。これは小早川秀秋の偏諱だという。この小早川秀雄(※閔妃事件の人物と同姓同名だが別人)は、『吉備国史』[166]を著述して郷土史家となるが、同書冒頭の解題に小早川氏を名乗る由来が説明されている。まず、かつて秀秋の子孫・某が足守侯木下氏に養われていたと書き、その某は「闕名[注釈 65]」として名前は不明であったとし、「某も亦幾ならずして夭死するに及び小早川氏は遂に断絶したり」と書いていて、やはり子孫を残さずに断絶したとしている。そして本人は子孫でも何でも無かったが、「氏因りて」その姓を冒し[注釈 64]「切に復興せん」と思い立って、勝手に毛利侯に直談判するなどしたが、木下侯は大いに驚き、事を大きくして幕府の忌諱に触ることを恐れて謝絶して藩として中止させたという。秀雄は不平不満を述べたようで、父兄は家累を守るために禄を辞したが、「独立特行」を志し「世事を度外」して、備中倉敷の書林林家に寄食し、史学の道を突き進むことにしたようである。小早川氏は前述のように明治12年(1879年)に再興されている[154]が、秀雄は嘉永6年(1853年)に亡くなっていて[165]直接関係はない。

人物[編集]

小早川秀秋座像(瑞雲寺)
  • 吉野の花見で詠んだ和歌5首(写しは高台寺で保存)。秀秋は豊臣家の公達として相応しい教養も身についていた。
    • 花のねがい み芳のの花の盛りをみぬ人にみせばやとのみ思ふばかりぞ[25]
    • 不散花風 よし野山梢をわたる春かぜもちらさぬ花をいかでたをらん[25]
    • 滝の上の花 水上に花やちるらんみよし野のたきの白たま色におちそふ[25]
    • 神前の花 芳野山奥の宮井に立つゞくかすみを花のいがきなりけり[25]
    • 花の祝 君が代はたゞしかりけりみよしのゝ花にをとせぬ峰の松かぜ[25]
  • 秀秋死後、彼と親交の深かった近衛信尹が記した追悼文によると、少年時代は蹴鞠など芸の道に才を見せ、貧者に施しをするなど優れた少年であったが、やがて酒の味を覚えると友人達と飲み明かす日々を送るようになり、秀秋の保護者的立場にあった高台院(北政所)を悩ませるようになったという過度な飲酒についての言及があり[167]、他にも前述のように秀秋は肝硬変を患っていたとの説もある[161]。また(時期は不明ながら)常楽会の場において乱暴を企てるなど[注釈 66]素行に問題があったようである。
  • 『木下家文書』によると、慶長7年4月20日付で、秀秋は高台院から五百両の借金をしている[169]。50万石以上の大名としては大した額ではないが、支払いは秋の年貢収入とされており、生活は奢侈なものであったようである。
  • 豊臣秀次の小姓で、美少年として有名だった不破万作とは文通をする仲だった[170]
  • 『片倉代々記』でも、小早川秀秋は男色で、衆道の嗜みがあったとされ、伊達家家臣・片倉小十郎重綱(当時17歳)が慶長7年(1602年)に豊臣秀頼に拝謁する伊達政宗に随行して上洛した際に、秀秋は小十郎の希代の美貌に惹かれて強引に迫ったという逸話が書かれている[171]。ちなみに小十郎は、政宗の衆道の相手の1人だったと考えられている。
  • 伊達政宗は、秀秋に小十郎を所望されて了承し、嫌がる小十郎に秀秋のもとに行くように説得しようとした。小十郎は佐々前右衛門を間に立てて辞退したが、政宗は再三、主命に従うように説得を繰り返している[172]
  • 東京国立博物館には秀秋所用と伝わる「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織(しょうじょうひ らしゃじ ちがいがま もよう じんばおり)」が所蔵されている。鮮やかな猩々緋地の羅紗陣羽織で、背中いっぱいに「違い鎌」紋様を、敵をなぎ倒す尚武的意義と諏訪明神の神体として置布刺繍で貼付けてある。大胆な意匠が印象的な逸品で、当時の武将の戦陣装束をよく今に伝えている( → 画像)。

家臣[編集]

  • 山口宗永(山口玄蕃) - 丹波以来の筆頭家老。傅役。秀吉の信任篤く、越前移封時に分知されて、加賀大聖寺の独立大名とされ、直臣に戻った。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、北陸で奮闘するも、前田利長らに攻められ敗死。子に山口弘定
  • 松野重元(松野主馬)- 丹波以来の家臣。関ヶ原の小早川勢の寝返りを快く思わず、戦後しばらくして出奔した。
  • 稲葉正成(通政) - 家老。岡山転封後、同役の杉原重政の粛清を受けて逐電した。後妻は徳川家光の乳母となる春日局であり、後に大名となった。
  • 平岡頼勝 (平岡石見)- 家老。黒田如水の姪婿。秀秋の死後浪人となるが、家康に召しだされて大名とされた。
  • 長崎元家 - 滝川一益旧臣。一益没落後、秀吉に仕え、秀秋の家臣として付けられた。秀秋没後は家康に召し抱えられ、幕府旗本。
  • 西郡和泉守(西郡久左衛門) - 筑前復帰後の年寄衆(家老)。
  • 杉原重政 - 下野守または紀伊守。杉原姓を称するが、出自不明。復帰後の年寄衆。岡山転封後に上意討ちに遭う。
  • 伊藤重家(伊藤雅楽頭) - 復帰後の年寄衆。関ヶ原では筑前に在国していた。
  • 国府忠重- 弥右衛門。関ヶ原では筑前に在国。岡山転封後は国府内蔵丞と名乗り、秀秋改易後は池田輝政に仕えた。
  • 柳生宗章 - 柳生一族の他と違って徳川家に仕えず。秀秋に近侍し、東軍への寝返りを画策したともいうが、出典は『明良洪範』などで多くの話は信憑性に欠く。
  • 伊岐真利(伊岐遠江守) - 槍術家。伊岐流槍術の始祖。柳生宗厳の弟子。岡山時代の家老で、常山城の城主とされた。
  • 堀田正吉(正利) - 織田信雄旧臣。信雄没落後、浅野長政に仕え、次いで秀秋家臣となる。稲葉正成の女婿。正成と共に出奔。
  • 志賀親次 - 関ヶ原後、福島家を経て肥後細川家に仕官。
  • 溝江長氏(長澄とも) - 朝倉氏家臣で、主家滅亡に際して信長に降り、秀吉に属して越前の領地を安堵された。北ノ庄城の城代であったが、秀秋の越前転封でその配下となったようだ。子に溝江長晴
  • 波部又右衛門 - 丹波の土豪から家臣となり、筑前入部に従う。
  • 滝川辰政 - 滝川一益の子。岡山転封後、姫路藩池田氏の家老の家に仕官した。

関連史料[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 野史』による[5]
  2. ^ a b 元服時期が不明のため、実際に木下姓を称したかは不明。
  3. ^ a b c 結婚の時に「秀詮」と改名し、秀秋となった方が後であるとする説もある[8]
  4. ^ a b c 「金吾」は官職の左衛門督の唐名「執金吾」が由来。
  5. ^ 中納言の異称を黄門というため、秀秋をさして黄門とも呼んだ。ただしほぼ同時期、織田秀信も岐阜中納言から黄門と称されており、混同に注意。
  6. ^ a b 毛利輝元養女、実父は宍戸元秀。元秀は輝元の妻の兄で、古満姫は姪にあたる。慶長4年(1598年)頃に離縁した[2]
  7. ^ a b ただし『寛政重修諸家譜』では、天正13年以来、亀山城の城主は前田玄以のままとされている。小吉秀勝の城主としての形跡は(於次秀勝との混乱により)一次史料で確認できないが、天正19年から文禄4年まで秀俊が居城としていたことが鍬山神社文書で確認されている[16]
  8. ^ 「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。
  9. ^ 『木下家譜』では、利房、延俊、俊定、秀秋、出雲守、僧は雲照院を生母とし、勝俊と秀規を異母とする。『寛政重修諸家譜』等諸系図では、利房、延俊、秀秋だけを雲照院が産んだ同母兄弟とし、残り全てを異母兄弟とする。
  10. ^ 婿養子であり、元の姓は不明。
  11. ^ (現代語訳)「…明智の乱の時、金吾様を(私が)おぶって、總持寺へ逃げたという事があったのですが…」
  12. ^ 『野史』の説明による[9][10]
  13. ^ 『寛永諸家系図伝』『木下家譜』など余り正確ではない系図資料によるもので、一次史料では確認されていない。桑田忠親は(時期について)不確かであると述べている[11]
  14. ^ a b 小田原の役が終了後、論功行賞で大垣城を与えられた次の城主が伊藤盛景である。後に松尾山から追い出される盛正はその子。
  15. ^ 加賀藩第4代藩主の前田綱紀が残した文書による[19]
  16. ^ 局(つぼね)は屏風や几帳などで区画されて設けられた部屋のこと。転じで、同室で生活する女房(女官)を「局」とも言うようになった。
  17. ^ 秀頼誕生で、秀吉の養子の存在が世継ぎ争い発展するのではないかという黒田孝高の懸念をさす。(碑文で史料価値は不明とされるものの)崇福寺に残されている黒田如水墓碑文でも、孝高は秀次にも同様の忠告をしたことになっていて、豊臣家の繁栄のために秀頼を中心とした親族による藩屏を作ろうというものだが、関ヶ原前後の孝高の実際の行動とは矛盾する。
  18. ^ a b c d 『大河内物語』『朝鮮物語』『朝鮮記』『大河内秀元陣中日記』とも云う。上下・2巻本、上中下・3巻本(糸魚川藩佐治信蔵・誠格堂版と、東都書林・清風閣藏版がある)とがある。5巻本は異本。慶長の役の蔚山の戦いついて詳しく書かれている史料であるが、ずっと後の江戸時代後期の嘉永2年(1849年)になって初めて出版されたもの[47]で、日記の形態ではなく物語調に編纂されており、少なくとも後年の手が入っている。版によって内容が異なるが、佐治信蔵版の原典には、寛文2年(1662年)の大河内秀元の署名の後に、子孫と思われる秀連という人物の寛文12年(1672年)の署名がある。原型がこの記述の通りに寛文年間の末に書かれたとすると、慶長の役より70年後ということになり、寛永3年 (1626年)の作である『甫庵太閤記』よりも新しい史料であるということは、それ以前に出版された作品の影響を受けている可能性があるという意味で注意を要する。(関連史料に掲示
  19. ^ 実際には黒田孝高はこの役目には就いていない。軍記物はしばしば孝高を軍師として描くが、豊臣政権や秀吉側近においてそのような役職・役割の人物はいなかった。
  20. ^ 太田一吉、毛利勝永竹中重利垣見家純毛利高政早川長政熊谷直陳
  21. ^ 『朝鮮記』では「秀詮」。
  22. ^ 『黒田家文書』所収の慶長三年正月朔日付早川長政竹中隆重連署陣触写は、蔚山の戦いの陣立書であるが、そこにも秀秋の名前は無い。
  23. ^ 問題となる伏見城で石田三成が讒言したとするシーン[48]は、(大河内が)太田一吉の家臣として朝鮮に居たのならば知り得ないような情報であり、後年に挿入された可能性がある。三成は常々逆心して策謀を巡らし、豊臣秀次を讒言で殺した、とも書かれているが、これは寛永年間の仮名草子である『聚楽物語』が描くフィクションの筋書きであり、江戸時代の他の書物の影響が所々見られる。
  24. ^ a b 浅野長政は安井重継の子で血縁ではないが、その妻長生院は木下家定の妹である。浅野長勝の養女でもあった高台院とも義姉弟の間柄で、長政は秀秋の叔父にあたる。一方で、長政の子幸長と秀秋は血の繋がった従兄弟の関係である。
  25. ^ 前述のように、秀秋と三成の不和は特に窺えないが、浅野長政・幸長親子と三成とはいくつか因縁があり、明らかに不和であった。
  26. ^ a b 『寛政重修諸家譜』によると面会ではなく山岡道阿弥を介して言上したことになっている[66]。当時、姫路城は父木下家定の居城であったが、大坂城詰めで不在で、兄延俊が城代を務めていた。延俊は細川忠興に近く、黒田長政の調略を受けていた秀秋と意思疎通を欠いていて、伏見城攻めで家康の不興を買った弟と関わることを恐れたようである。
  27. ^ 妙寿尼の子。長政の従弟。平岡頼勝の妻は、正好の姉。
  28. ^ 木下勝俊は直接、家康より伏見城の守備を託されており、亡き太閤の甥であって名目上は大将格であった。
  29. ^ 同時に行われた田辺城の戦いも、細川幽斎と懇意の朝廷の仲裁によって和議が成立している。
  30. ^ これも北政所の指示という[80]
  31. ^ 両名とも家康の腹心で内応担当をしていた。
  32. ^ 増田長盛は一見すると積極的に西軍に味方しているようだが、実は東軍・家康にも内通しており、戦火が及ばぬように大坂城を中立化させるような行動をとった。
  33. ^ 西軍滝川雄利の居城神戸城があったが、これとは合流していない。
  34. ^ a b 高宮は当時の主要な宿場町の一つで、佐和山城からわずか南南西5キロほどの位置である。
  35. ^ 熊谷直盛高橋元種秋月種長垣見一直、相良頼房らの軍勢。9月3日に大垣城に到着した。
  36. ^ なお、黒田長政と浅野幸長は家康の親族でもあり、かなり親しい徳川方の豊臣家恩顧の大名であったが、それでも山岡道阿弥のような家康の臣下ではなく、立場も利害も異なった。実際、美濃の戦いの前には福島正則や池田輝政らが積極的に戦端を切らないからと、家康は出馬を遅らせており、東軍の豊臣家恩顧の大名を信用していなかった。小早川秀秋の伏見城攻めでの行動は、彼ら東軍の豊臣家恩顧の大名の立場を悪くしたと考えられる。
  37. ^ a b 大谷吉継・吉治(吉勝)木下頼継脇坂安治安元朽木元綱赤座直保小川祐忠平塚為広戸田勝成(重政)の軍勢。
  38. ^ 著者の板坂卜斎(宗高)は、徳川家康の侍医で、これは彼が随行して実際に見聞きしたことを記録したとされる書物。写本・異称が多く、版によって内容が異なるが、1次史料。9月3日の小田原の出来事を記録するのは黒川本『板坂卜斉日記』による。
  39. ^ 『関原軍記大全』と同じ。
  40. ^ 宇喜多秀家が大垣城に入った時期と経路は不明で、そのため『関原軍記大成』のこのエピソードにあったと思われる日付もよくわからないが、北陸勢が到着した直後、9月の初旬か遅くとも10日以前であろう。
  41. ^ これも宿場町で、江戸時代には柏原宿があった。
  42. ^ 『寛政重修諸家譜』『寛永諸家系図伝』の稲葉正成の項による[94]
  43. ^ 前述の三成の増田長盛への9月12日付書状には、伊藤盛正の家来や町人からまで人質を取ったと書いてあり、若い盛正ではなく、その家来衆を怪しんでいた[101]
  44. ^ 参謀本部編『日本戦史』の末尾に、小早川勢・1万5,675とある[104]が、松尾山に着陣した兵力は8,000[105]。なお、『関原軍記大成』『改正三河後風土記』では8,000となっている。
  45. ^ 『関原軍記大全』と同じ。
  46. ^ ただし、後述するように三成が増田長盛に出した12日付の書状には、安国寺恵瓊に対しても戦場から離れた高山・南宮山に陣して不審を持ったという記述がある[110]。恵瓊も秀秋も、三成から見れば同じく疑わしい存在であり、この点からも恵瓊の「智計」だとする『関原軍記大成』の話は辻褄が合わない。
  47. ^ もう1人の使者は、田中半左衛門、矢田半右衛門、矢田右衛門、矢田善七など、史料により様々な名前で書かれているが、どの人物についても詳細不明で、誰を指しているのかわからない。
  48. ^ 『石卵餘史』では秀家を含む6名。他ではそれを除く5名。
  49. ^ 9月3日時点では徳川秀忠が本隊を率いて来援する予定だったため、家康にとって小早川秀秋の加勢は必要なかった。しかし6日に秀忠は真田昌幸上田城攻めを始めてしまい、9日に大久保忠益が到着して攻撃中止と急ぎ西上を命じられたことを伝達した時点で、本戦への遅参は確実であって、赤坂への進出を決意した東軍にとって、翌日の小早川秀秋の助勢は何よりも必要なものとなっていた。
  50. ^ 1次史料を検討した新たな説では、大谷・小早川は前日まで同じ場所に陣をしいていたが、小早川の謀反がほぼ確実視されてきたことで、陣分けたとされる[119]。しかし新説でも、小早川隊は松尾山の麓に陣をしいて大谷隊の背後で、やはり近接していたと考えられている。
  51. ^ 近年の研究では、笹尾山は戦場となっておらず、石田三成の陣とされていた地点は無関係であるとのこと。
  52. ^ 『黒田家譜』による。
  53. ^ 草摺(くさずり)は甲冑の胴丸の下部に吊り下がっている裾垂れのこと。
  54. ^ この3郡は督姫の化粧料。
  55. ^ なお、小早川治世後であるが、慶長8年に金川・虎倉両城も破却され、常山城は下津井に移築され、下津井の城も元和元年に廃城となっている[141]
  56. ^ 『備前軍記附録』によると、村山越中守某は、その後に(あることで)岡山を退去して、「なへが浦」という場所に船を付けておいて弓兵を配置し、追手を射殺して大坂に退いたという。「其後又、備前宰相の御家に仕へ」とあるが、これは姫路宰相の誤りで、池田輝政の家の意味か。大坂の役にも参加して、加賀・前田家で5,000石の知行を得たという。村山越中守は手強い人物だが、分別がなく、大口を吐く者で、他人の悪口を言うことが多かったと寸評されている。
  57. ^ 稲葉正成は、浪人になった後、再び帰参して(姫路藩の)伊木長門守に仕えたという[143]
  58. ^ 道澄(=聖護院准后)は、秀秋の学問、手習いの師匠として、幼少期より付き合いがあった[152]
  59. ^ この部分の出典は、山陽新聞社編『ねねと木下家文書』 (1982年) より孫引きか[152]
  60. ^ 岡山市に実際にある地名。
  61. ^ 岡山市東区にある地名。
  62. ^ 宝永6年(1709年)刊行の備前一国八郡の地誌。
  63. ^ ただし岡山県立図書館の調べによると、「葛巻九馬治郎」と名乗って、文化年間(1804~1818年)には葛巻氏の養子だったようだ[165]。そもそも解題は小早川秀雄本人が書いたものではなく、編者の沼田頼輔が(死後40余年過ぎた)明治30年に書いているので、誤伝か。
  64. ^ a b 「冒す」は仮に他人の姓を名乗るの意味で、『吉備国史』の解題にて使われている表現である。
  65. ^ 名を闕く、つまり名前の記録が残っていないの意味。
  66. ^ 大日本古文書家わけ第11之1(小早川家文書之1)514号文書[168]

出典[編集]

  1. ^ 岡山市教育会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 岡山史蹟 : 岡山市教育会五十周年記念. 第1冊』岡山市教育会、1936年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1099186/17 国立国会図書館デジタルコレクション 
  2. ^ a b c 西尾和美 著「第4章 豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」、川岡勉、古賀信幸 編『日本中世の西国社会1 西国の権力と戦乱』清文堂出版、2010年。ISBN 4792409276 
  3. ^ 小早川秀雄 1897, p. 解1.
  4. ^ a b c 本多博之 1997, p. 1、本多博之「小早川秀秋発給文書に関する一考」『安田女子大学紀要』25号、1997年、91-103頁、NAID 40003664718 
  5. ^ 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 1042、岡山市 1922, p. 1672
  6. ^ 桑田 1971, pp. 39–40.
  7. ^ 永井 2011, p. 113.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n 高柳 & 松平 1981, p. 100
  9. ^ 岡山市 1922, p. 1672
  10. ^ a b 渡辺 1919, p. 289
  11. ^ 桑田 1971, p. 39.
  12. ^ a b 桑田 1971, p. 40.
  13. ^ a b 矢部健太郎「小早川家の「清華成」と豊臣政権」『国史学』196号、2008年、63-98頁、NAID 40016399007 
  14. ^ 永井 2011, p. 17.
  15. ^ 桑田 1971, p. 48.
  16. ^ a b 京都府教育会南桑田郡部会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 南桑田郡誌』京都府教育会南桑田郡部会、1924年、70-71頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978749/54 国立国会図書館デジタルコレクション 
  17. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、34頁。 
  18. ^ a b 渡辺 1919, p. 290
  19. ^ a b 徳富猪一郎『国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣氏時代 丁篇 朝鮮役 上巻』 第7、民友社〈近世日本国民史〉、1935年、445-453頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223744/245 国立国会図書館デジタルコレクション 
  20. ^ 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 1042.
  21. ^ 永井 2011, pp. 24–25.
  22. ^ 渡辺 1919, pp. 229–234, 290、桑田 1971, pp. 40–41
  23. ^ 服部英雄 2010, pp. 8–10
  24. ^ 永井 2011, pp. 27–31.
  25. ^ a b c d e f 桑田 1971, pp. 41–42.
  26. ^ a b 桑田 1971, p. 42.
  27. ^ 渡辺 1919, pp. 290–292、桑田 1971, pp. 42–43
  28. ^ 『戦国遺文 房総編』 第4、東京堂出版、2013年、120頁。ISBN 9784490306774 
  29. ^ 豊臣秀吉朱印状 筑前中納言疱瘡為見廻”. 東京大学史料編纂所. 2018年9月7日閲覧。
  30. ^ a b 豊太閤展覧会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 29 慶長再征之役進發人數書」『豊公余韻』白木屋計画部、1939年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116679/39 国立国会図書館デジタルコレクション 
  31. ^ 塙保己一 編「国立国会図書館デジタルコレクション 朝鮮記」『続群書類従. 第20輯ノ下 合戦部』続群書類従完成会、1923年、267-268頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936493/138 国立国会図書館デジタルコレクション 
  32. ^ 岡山市 1922, p. 1672
  33. ^ 徳富 1935, pp. 413–423
  34. ^ 史料綜覧11編913冊137頁
  35. ^ a b 中野等「小早川秀俊の家臣団について」『戦国史研究』27号、2008年。 
  36. ^ 史料綜覧11編913冊140頁
  37. ^ 徳富 1935, p. 470
  38. ^ 徳富 1935, pp. 590–593
  39. ^ 笠谷 2008, pp. 55–57
  40. ^ 本多博之 1997, p. 8
  41. ^ 永井 2011, p. 75.
  42. ^ 本多博之 1997, pp. 8–11
  43. ^ 「宮窪町村上家文書」(『今治郷土史 資料編 古代・中世』今治市1989年639頁92-11号文書)西生浦在番人数帳。
  44. ^ 史料綜覧11編913冊160頁
  45. ^ 岡山市 1922, pp. 1673–1674.
  46. ^ 渡辺 1929, pp. 114–115
  47. ^ 富山房国史辞典編纂部 編『国立国会図書館デジタルコレクション 国史辞典』 第2、富山房、1897年、49-50頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124598/33 国立国会図書館デジタルコレクション 
  48. ^ 塙保己一 編「国立国会図書館デジタルコレクション 朝鮮記」『続群書類従. 第20輯ノ下 合戦部』続群書類従完成会、1923年、346-348頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936493/177 国立国会図書館デジタルコレクション 
  49. ^ 渡辺 1929, pp. 115–116
  50. ^ a b 本多博之「豊臣政権下の博多と町衆」『西南地域史研究』第11巻、文献出版、1996年2月、71-104頁、NAID 40004164027 、のち谷徹也 編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-277-3)、所収
  51. ^ 本多博之 1997, p. 12
  52. ^ 渡辺 1929, p. 120
  53. ^ 渡辺 1929, p. 115
  54. ^ 堀越祐一「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」『國學院大學紀要』48号、2010年、341-361頁、NAID 40017015035 
  55. ^ 渡辺 1929, p. 114
  56. ^ 本多博之 1997, pp. 13–14
  57. ^ 史料綜覧11編913冊186頁
  58. ^ a b c 徳富 1935, p. 405
  59. ^ a b c d e f g h 藤井 1926, pp. 100–101
  60. ^ 笠谷 2008, pp. 116–118
  61. ^ a b 桑田 1971, p. 53
  62. ^ 高柳 & 松平 1981, pp. 10–11
  63. ^ 笠谷 2008, p. 116
  64. ^ 徳富 1935, pp. 399–401
  65. ^ a b c d e 桐野 2014, p. 15
  66. ^ a b c d 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 稲葉氏」『寛政重脩諸家譜. 第4輯』國民圖書、1923年、186頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713/102 国立国会図書館デジタルコレクション 
  67. ^ 徳富 1935, p. 226
  68. ^ a b c d e 宮川 & 黒川 1916, pp. 427–428
  69. ^ a b 宮川 & 黒川 1916, pp. 309–310
  70. ^ a b 笠谷 2008, pp. 102–103
  71. ^ 宮川 & 黒川 1916, p. 423。徳富 1935, pp. 244–245
  72. ^ 宮川 & 黒川 1916, p. 426
  73. ^ 徳富 1935, p. 245
  74. ^ 宮川 & 黒川 1916, p. 427.
  75. ^ a b 徳富 1935, p. 246
  76. ^ 小和田 1993, p. 202
  77. ^ 参謀本部 1911, p. 60.
  78. ^ 真田増誉『国立国会図書館デジタルコレクション 明良洪範』 25巻 続篇15、国書刊行会〈国書刊行会刊行書〉、1912年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/990298/26 国立国会図書館デジタルコレクション 
  79. ^ 参謀本部 1911, pp. 60–61.
  80. ^ 宮川 & 黒川 1916, p. 447
  81. ^ 宮川 & 黒川 1916, pp. 428–429
  82. ^ 徳富 1935, p. 249
  83. ^ 参謀本部 1911, pp. 61–62.
  84. ^ 徳富 1935, pp. 247–253
  85. ^ 宮川 & 黒川 1916, pp. 310–311
  86. ^ 笠谷 2008, p. 83
  87. ^ a b 宮川 & 黒川 1916, p. 182
  88. ^ a b 徳富 1935, pp. 405–407。笠谷 2008, pp. 116–118
  89. ^ a b 笠谷 2008, pp. 4–5, 116–118.
  90. ^ a b 桐野 2014, p. 16
  91. ^ 板坂卜斎国立国会図書館デジタルコレクション 慶長年中卜斎記』甫喜山景雄、1882年、中巻9頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772758/18 国立国会図書館デジタルコレクション 
  92. ^ a b c 宮川 & 黒川 1916, pp. 182–184。徳富 1935, p. 407
  93. ^ 白峰 2008, p. 13.
  94. ^ 白峰 2008, pp. 12–13.
  95. ^ a b c 小和田泰経 2014, p. 106.
  96. ^ a b 白峰 2008, p. 14.
  97. ^ 小和田 1993, p. 47.
  98. ^ 白峰 2016, pp. 144–145.
  99. ^ 徳富 1935, pp. 410–423.
  100. ^ a b 小和田 1993, pp. 47–48.
  101. ^ 徳富 1935, p. 412.
  102. ^ 白峰 2008, p. 12.
  103. ^ 徳富 1935, p. 407.
  104. ^ 参謀本部 1911, p. 392.
  105. ^ 参謀本部 1911, p. 176.
  106. ^ a b 徳富 1935, p. 408.
  107. ^ 藤井 1926, p. 102.
  108. ^ 白峰 2008, pp. 13–14.
  109. ^ 宮川 & 黒川 1916, pp. 361–362.
  110. ^ 徳富 1935, pp. 411–413.
  111. ^ a b c 宮川 & 黒川 1916, pp. 362–364
  112. ^ 渡邊大門「関ヶ原合戦における小早川秀秋の動向 (記念論叢)」『政治経済史学』第599.600号、政治経済史学、2016年、10-31頁、NAID 40021063667 
  113. ^ 小和田 1993, pp. 163–164, 204–207.
  114. ^ 小和田 1993, p. 164.
  115. ^ 宮川 & 黒川 1916, pp. 325–326.
  116. ^ 宮川 & 黒川 1916, pp. 324–325.
  117. ^ 宮川 & 黒川 1916, pp. 326–327.
  118. ^ 徳富 1935, p. 409.
  119. ^ 白峰 2016, p. 150.
  120. ^ a b 藤井 1926, p. 109.
  121. ^ 小和田泰経 2014, pp. 112–113.
  122. ^ a b 小和田泰経 2014, p. 113.
  123. ^ 小和田 1993, pp. 162–163.
  124. ^ 岡山市 1922, pp. 1689–1690.
  125. ^ 宮川 1916, pp. 168–171.
  126. ^ 近藤瓶城 1902, pp. 10–11.
  127. ^ 藤本正行「関ヶ原合戦で家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいない」『歴史読本』特別増刊、1984年2月。 
  128. ^ 三池純正『敗者から見た関ヶ原合戦』洋泉社、2007年5月。ISBN 978-4862481467 
  129. ^ a b 堀田 1923, p. 268.
  130. ^ 史料綜覧11編913冊267頁
  131. ^ 永井 2011, pp. 132–133.
  132. ^ 湯浅常山 [他] 編「国立国会図書館デジタルコレクション 石田三成生け捕らるる事」『常山紀談』有朋堂〈有朋堂文庫〉、1926年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018103/242 国立国会図書館デジタルコレクション 
  133. ^ 永井 2011, pp. 132–136.
  134. ^ 近藤瓶城 編『国立国会図書館デジタルコレクション 細川忠興軍功記』 第15、近藤出版部〈史籍集覧〉、1926年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302/66 国立国会図書館デジタルコレクション 
  135. ^ 永井 2011, p. 140.
  136. ^ a b 岡山市 1922, pp. 1690–1691.
  137. ^ a b c d e f g 土肥 1897, pp. 五巻19-20.
  138. ^ a b 桑田 1971, p. 45.
  139. ^ a b c d e 岡山市 1922, p. 1691.
  140. ^ 史料綜覧11編913冊282頁
  141. ^ a b c d 岡山市 1922, p. 1692.
  142. ^ 岡山市 1922, pp. 1692–1693.
  143. ^ a b 岡山市 1922, p. 1693.
  144. ^ 史料綜覧11編913冊313頁
  145. ^ 黒田基樹「第四章小早川秀詮の備前・美作支配」『戦国期 領域権力と地域社会』岩田書院、2009年。ISBN 4872945441 
  146. ^ 岡山市 1922, pp. 1038–1039, 1693–1694.
  147. ^ 史料綜覧11編913冊312頁
  148. ^ 史料綜覧11編913冊329頁
  149. ^ 史料綜覧11編913冊334頁
  150. ^ 史料綜覧11編913冊336頁
  151. ^ 永井 2011, pp. 157–158.
  152. ^ a b 永井 2011, p. 155.
  153. ^ a b c 小和田哲男『慶長武士事情関ヶ原以降の浪人問題』(Kindle)学研〈歴史群像デジタルアーカイブス〉、2014年。 ASIN B00MN8423I
  154. ^ a b 太田亮『国立国会図書館デジタルコレクション 姓氏家系大辞典』 第2、姓氏家系大辞典刊行会、1936年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/272 国立国会図書館デジタルコレクション 
  155. ^ 大日本史料12編2冊571頁
  156. ^ 近世武家の世界・コラム
  157. ^ a b c d e 岡山市 1922, pp. 1694–1695.
  158. ^ a b c 岡山市 1922, p. 1695.
  159. ^ 岡山市 1922, pp. 1698–1700.
  160. ^ a b 宮川 1916, pp. 192–193.
  161. ^ a b c d 若林利光 (2017年6月16日). “小早川秀秋の関ケ原での優柔不断、その後の乱行は、すべて病気のせいだった!?(2)”. PHPonline衆知. 2018年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月4日閲覧。
  162. ^ 北村長太郎『国立国会図書館デジタルコレクション 岡山名所図会』細謹舎、1898年、7頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766127/14 国立国会図書館デジタルコレクション 
  163. ^ 永井 2011, pp. 148–149.
  164. ^ 横田冬彦「歴史随想 田住家文書にある二通の秀吉朱印状-羽柴秀勝、小早川秀秋とその娘について」『神戸大学史学年報』第5巻、神戸大学史学研究会、1990年、95-98頁、ISSN 0912-6538 
  165. ^ a b 小早川秀雄の生涯について知りたい-岡山県立図書館の解答”. レファレンス協同データベース (2018年3月25日). 2018年10月4日閲覧。
  166. ^ 小早川秀雄 著、沼田頼輔; 山田貞芳 編『国立国会図書館デジタルコレクション 吉備国史』小橋藻三衛〈吉備叢書. 第2巻〉、1897年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766138/2 国立国会図書館デジタルコレクション 
  167. ^ 永井 2011, pp. 155–156.
  168. ^ 家わけ十一ノ一 1927, p. 501.
  169. ^ 永井 2011, pp. 147–148.
  170. ^ 永井 2011, pp. 35–36.
  171. ^ 武光誠 編『本男色物語 : 奈良時代の貴族から明治の文豪まで』カンゼン、2015年。ISBN 9784862553027 
  172. ^ 永井 2011, pp. 149–151.

参考文献[編集]

関ヶ原関連
論文

外部リンク[編集]