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利用者:Quark Logo/sandbox平手久秀

 
平手久秀
太平記英勇伝22 平手監物(落合芳幾
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永5年4月30日1525年5月22日)あるいは大永7年(1527年
死没 天正2年8月2日1574年8月18日
改名 狛千代丸(幼名)、久秀→宗政
別名 時秀[1]通称:五郎左衛門、監物、久左衛門、加賀守、法名:宗賢
戒名 聖明徳院殿鉄渓宗賢大禅定門[2]
墓所 政秀寺
官位 従五位下加賀守
主君 織田信秀信長
氏族 平手氏
父母 父:平手政秀、母:仙(生津正常の娘)
兄弟 野口政利久秀埴原寿安
女(織田長益室)[3]
加藤清正の姉)※
汎秀
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平手 久秀(ひらて ひさひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田家の家臣。尾張小木城(小木邑城)主。は後に宗政(むねまさ)に改めた。通称監物(けんもつ)で、平手監物でも知られる[4]

略歴[編集]

大永5年(1525年)または同7年(1527年)に生誕。

天文2年(1533年)7月20日、尾張に下向した山科言継が政秀邸で歓待されたときに7歳の政秀の次男が太鼓を打ったといいが、これは久秀のことらしい[5]。『言継卿記』が正しければ、出生は後者の大永7年となり、系図は誤りであろう[1]

幼名は父と同じ狛千代丸。

織田家の宿老平手政秀の長男であるが、叔父の政利(野口政利)が父の政秀に子として養育され、すでに惣領を継いでおり、分家の小木城を継いだ[6]。このため久秀の叔父は義理の兄でもあった。

『平手家牒譜』『野口系図』によれば、久秀の正室は加藤清正の姉(俗名・宗)である[2][7]。ただし谷口克広は清正の姉を嫡男の汎秀の生母とするのは生年から考えて「無理であろう」とする[8]。牒譜は、尾張国愛知郡中村在住の宗は、実は九条関白道家公11世権中納言忠家の娘と書いている。これは加藤清正の系図の仮冒を端折って受け継いたもので年代的に数代足らず荒唐無稽と思われる。
『池田生津系図』によれば、砲術家の橋本一巴は久秀の母方の叔父であって、織田信長の師匠として知られる一巴と平手政秀の両人は義理の兄弟だったことがわかる[9]。しかし同系図では、久秀の叔母にあたる生津正常の娘が清正の子の加藤忠広の室となっていて[9]、政秀と忠広の妻が姉妹とするあり得ない記述も見られる。
このため諸系図の記述は信頼性に欠き、信じるに足らないが、平手氏、池田氏、橋本氏、加藤氏に関係する事物が多く残っているので、恐らく細部が違うにしても、何らか姻戚関係を持っていた可能性はあるとは言えるだろう。

久秀は壮年の頃より各地を転戦したというが、詳しい戦功については不明。

太閤記』では平手監物は軍師として描かれており、桶狭間合戦の前に木下藤吉郎と大激論を交わして打ち負かされるシーンがあるが、史料と呼べる『信長公記』に登場するのは元亀年間からである。

元亀元年(1570年)8月、野田城・福島城の戦いに従軍し、9月8日、久秀は汎秀、長谷川与次水野直盛佐々成政塚本小大膳丹羽氏勝佐藤秀方梶原景久高宮右京亮ら武将と共に川口砦に配置された[10]

翌元亀2年(1571年)9月、比叡山を包囲する織田勢は25日に麓の香取屋敷を補強して、久秀、長谷川、山田勝盛不破光治丸毛光兼浅井政貞(新八)、水野正長を将として配備した[11]

天正2年(1574年)、伊勢における第三次長島一向一揆攻めに従軍して8月2日に討死した[2]。享年50[2]

戒名に禅定門がついているので、戦死する前の何れかの時期にすでに剃髪していたものと思われる。政秀寺に葬られた。

脚注[編集]

  1. ^ a b 加藤 1997, p. 831.
  2. ^ a b c d 瀧 1993, p. 12.
  3. ^ 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 織田氏」『寛政重脩諸家譜 第3輯』國民圖書、1923年、579頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/298 国立国会図書館デジタルコレクション 
  4. ^ ただし嫡男の汎秀も監物を名乗ったので混同も見られる。『信長公記』にでる監物は久秀のことで、汎秀は甚左衛門の名で出てくる。
  5. ^ 谷口 1995, p. 346.
  6. ^ 加藤 1997, pp. 825–826.
  7. ^ 加藤国光 編『尾張群書系図部集(上)』続群書類従完成会、1997年、287,292頁。ISBN 9784797105551 
  8. ^ 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、346頁。ISBN 4642027432 
  9. ^ a b 瀧 1993, p. 13.
  10. ^ 近藤 1926, p. 67.
  11. ^ 近藤 1926, p. 69.

参考文献[編集]