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利用者:Quark Logo/sandbox平手汎秀

 
平手汎秀
時代 安土桃山時代
生誕 天文22年1月2日1553年1月15日
死没 元亀3年12月22日1573年1月25日
改名 秀千代丸(幼名)、秀胤→汎秀
別名 秀胤、通称:五郎左衛門尉、甚左衛門尉、監物※[1]
戒名 道尊院殿不可宗勲禅定門
墓所 政秀寺牛頭山長福寺
主君 織田信長
氏族 平手氏
父母 父:平手久秀、母:宗(加藤清正姉※)
特記
事項
笠覆寺文書』にある平手孫右衛門長政を、汎秀に比定する書籍があるが、大叔父の政利の方が可能性がある[2]
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平手 汎秀(ひらて ひろひで)は、安土桃山時代武将織田信長の家臣。諱は初め秀胤(ひでたね)といった。通称甚左衛門であるが、しばしば父親との混同で監物ともされる[3]

生涯[編集]

天文22年(1553年)1月、織田家宿老の平手政秀の長男である久秀の嫡男として[4]、政秀の切腹の約1ヶ月前に生まれた。幼名は秀千代丸。

『平手家牒譜』『野口系図』によれば、母は加藤清正の姉(俗名・宗)とされているが[5][6]谷口克広は「無理であろう」とする[7][8]。牒譜は、尾張国愛知郡中村在住の宗は、実は九条関白道家公11世権中納言忠家の娘とも書いているが、これは大名・加藤家の系図の仮冒を端折って受け継いたもので年代的に数代足らず荒唐無稽と思われる。よって信用性に欠けるが、一応、諸系図では母は加藤氏ということになっている。

織田信長に仕えるが、信長の尾張時代にはまだ十代そこそこであり、事績は全く伝わっていない。

元亀元年(1570年)8月、石山本願寺攻めにおける野田城・福島城の戦いに従軍し、9月8日、汎秀は父に従い、長谷川与次水野直盛佐々成政塚本小大膳丹羽氏勝佐藤秀方梶原景久高宮右京亮ら武将と共に川口砦に配置された[9]。このとき17歳であり、初陣であろうか。

三方ヶ原合戦[編集]

元亀3年(1573年)11月、武田信玄遠江侵攻して二俣城を包囲し、その西上作戦が始まったため、信長は「御家老衆」の佐久間信盛・汎秀・水野信元を援軍の大将[11]として徳川家康のいる浜松城へ派遣した[12]。若輩にも関わらず家老に並ぶほどの厚遇を信長より受けていたことがわかる。しかし到着するとすでに二俣城は落城しており、信玄は浜松城を通り過ぎて堀江城に向かった。これに対して家康が出撃したことから三方ヶ原合戦が起こった[12]。水野信元はまだ浜松に到着していなかったか、あるいは近くまでは来ていたが、合戦には参加しなかった[13]

信長公記』によれば、12月22日、佐久間・平手隊も徳川勢に続くが、三方原[14]で待ち構えていた武田勢に攻めかかられた。一番合戦において、汎秀は討死し、その手勢も多く殺られた。また小姓衆[15]長谷川橋介・(前田利家の実弟)佐脇良之山口飛騨守賀藤弥三郎、家康の身内衆の成瀬正義が討死した[12]。家康は敵に中央突破を許して乱戦に巻き込まれ、三方ヶ原から退却したが、敵はこれを先回りして再び交戦。(二番合戦では)家康は馬上から弓を射って奮戦して(追手を)撃退し、浜松城へ帰還した[12]

同合戦の陣立てはわかっていないが、高柳光寿は、織田勢を右翼とする旧参謀本部の『日本戦史』の説は(良質の史料とは言えない)『武徳大成記』をもとに想像したもに過ぎずないとして退け、徳川・織田連合軍では汎秀と信盛は、旗本衆の本多忠勝大須賀康高らの助勢として左翼に陣したと考えられるとし、小山田信茂隊の攻撃を押し留めようとしたと書いている[16]。佐久間信盛ははじめから戦意がなく、戦闘が始まるといち早く戦場から脱出した[17]

『菅利家卿語話』(『陳善録』『村井重頼覚書』)[18]によれば、信長が送った援軍は「七頭加勢」で、大将は平手汎秀と佐久間信盛との2人であり、両名が町屋に泊まっているところを援軍の労をねぎらおうと、家康が何気なく端から順に見廻って挨拶しようとしたが、2階からそれ見ていた汎秀は、信長公は自分を大将として任命してくださったのに、家康は自分が未だ19歳と若輩だからと後回しにしたのだろうと激怒。三味線を弾いて高々と「我は明日先駆けして討ち死にする者にて、挨拶の儀式は無用である」と小唄にして謳ったので、家康は大変困ってしまった。そして翌日の戦闘において汎秀は一番に駆け出していったので、信盛は使者を派遣して「平手殿は七頭の大将」として信長公に任じられたであるから戻るようにと促したが、「家康の待遇は嘘の大将だからであり、我は葉武者(雑兵)である」とへそを曲げて、突入していってしまった。家康も使者を出して何度も止めたが、結局、討ち死にした。この話を鷹野の最中に聞いた信長は大変不機嫌になり、信盛に家の子の甚左衛門を大将とするように命じたが、先に駆けさせて討死させてしまったと怒り、「(死んだ)甚左衛門を返してくれ」と叱責し、信盛に伝えるようにと猪子に命じている。この説話は、汎秀の討死は家康が順番を間違るたせいであり、些細なことに思えても、挨拶する順番は大事であるという教訓にまとめている[19]。(なお、京都市北区紫野の建勲神社の織田信長公三十六功臣の平手汎秀の図が三味線を持っているのは、この逸話を描いたものである。)

汎秀の戦没地は稲葉(いなんば)[20]であったとされる[16]。これは浜松城の南方2キロの地点にあり、地理に暗かったために城に入れなかったのか、退却の途中において三方原台地の端で力尽きた。東海道を今切[21]の方に脱出しようとして果たせなかったようだ[22]。高柳は「敵陣に飛び込んで戦死したとように書いているものもあるが、事実は敗戦のうちに追い詰められて戦死したのであった」と書いているが[23]、死地の場所はその傍証となるだろう。どんな記録をみても、織田勢の奮闘のことは全く書かれていない。『甲陽軍鑑』では(織田勢は)「戦わない前からこの兵には敗色があった」とあるほどである[23]。同じく『甲陽軍鑑』によれば、武田信玄は(まだ甲尾同盟は継続中であったため)織田信長が三方ヶ原の戦いに徳川家康に援軍を送ったことを非難して、汎秀の首を信長のもとに送り付けて絶交を宣言したという[24]

余波[編集]

三方ヶ原の敗戦という結果を知った水野信元は岡崎城に撤退したが、これがために信玄に籠絡されて一味に組していたとの噂がたった[13]。佐久間信盛は信元の刈谷城を監視する任務を与えられていたので仲が悪く、後の天正3年(1575年)に信長が秋山信友の籠もる岩村城を包囲したとき、信元が同城に兵糧米を運び込んだと噂を聞きつけてこれを讒言し、信長に信元を粛清させた[25]

天正8年(1580年)8月、信長は、佐久間信盛・信栄に折檻状を出したが、その末尾に、遠江での負け戦で、兄弟や内々の家臣を討死させたならば信盛は運良く生還できたと納得できたろうが、自分の軍勢から1人も討死を出さなずに「平手を捨てころし」それでいて平気な顔をしていたと責めた[26]。三方ヶ原の7年後のことであるが、信長に目をかけていた汎秀の死を忘れず、信盛の働きに怒っていたことがわかる。ちなみに、折檻状には信元讒言の件の後の不始末の話もでてくる。

監物坂[編集]

平手時秀※公霊場(静岡県浜松市中区東伊場平手神社跡)

汎秀の享年20。父である久秀(平手監物)に先立って亡くなった。『平手家牒譜』は、前述の通り信用できるものではないが、戦死日を12月15日として法名を道尊院殿不可宗勲禅定門とする[5]。しかし三方ヶ原の戦いは一般的に12月22日とされ、戦死日もこちらが正しい。なお、平手氏には政秀の弟で荒子城主である平手秀定の子、平手秀胤(大炊助)がおり[27]、野口姓を称する家もあるので、断絶してはいない。平手大炊助は後に織田信雄に仕えて6,000貫の知行を得ている[2]

前述の戦没地は、台地の縁にあるので稲葉山ともいい、東伊場1丁目のグランドホテル浜松の西側の坂を「監物坂」あるいは「鳥居坂」と呼んでいる。由来は坂の上に平手神社の鳥居があったためともいう[28]。平手神社は同地で没した汎秀を祀ったものである。監物坂と呼ばれる由来はこの間違った碑が「平手監物討死之地」とあるためだが[29]、墓碑に「平手監物時秀」公と刻まれているのは、監物を名乗った父親との混同である。『尾張名所図会附録』にある平手監物時秀は「平手五郎右衛門の弟」とあり、これは久秀に比定されているが[30]、恐らく建碑の関係者がこれを取り違えたためでろう[28]

平手神社は、施設の老朽化等などの諸事情により平成17年(2006年)に全て取り壊され、墓碑のみ野ざらしの状態となっていたが、平成18年(2007年)3月に平手政利の末裔(野口・杉本・杉の三家)の内、杉本勝仁が地元の人から平手神社の取り壊し事情を聴き、浜松の人々の協力の上、浜松市との数回に渡る協議の上、許可を得て平手神社跡から、墓碑と家臣の碑を平手家一族の菩提寺(平手政秀の弟である政利が中興)である牛頭山長福寺愛知県稲沢市平和町下三宅)に移転し、現在は平手一族の末裔で祀っている[31]。また、汎秀は喘息を患っており、汎秀が死に際に「拙者はこの地にて一命を落とすが、これからは神となりこの土地の民が患う喉の病を治してしんぜよう」と言い残し討死した伝説もあり、平手神社に祈ると喘息・風邪等喉の病気が治癒すると伝わっている[31]

なお、下掲『浜松歴史散歩』に平手神社の昔の外観の写真がある[29]

脚注[編集]

  1. ^ 監物を汎秀の通称とするのは父親の久秀と混同したもの。また汎秀は若年ゆえか、一次史料はほぼなく、受領名を持っていたかどうかはわからない。
  2. ^ a b 加藤 1997, p. 832.
  3. ^ 『信長公記』では監物(久秀)と甚左衛門(汎秀)ははっきり別人として書き分けられており、後述するが、三方ヶ原の戦いで亡くなるのは甚左衛門で、監物はその翌年に亡くなる。
  4. ^ 加藤 1997, p. 830.
  5. ^ a b 瀧 1993, p. 12.
  6. ^ 加藤国光 編『尾張群書系図部集(上)』続群書類従完成会、1997年、287,292頁。ISBN 9784797105551 
  7. ^ 谷口 1995, p. 346.
  8. ^ 織田信長家臣人名辞典第2版p388
  9. ^ 近藤 1926, p. 67.
  10. ^ 著者不詳 著「国立国会図書館デジタルコレクション 二俣の城攻附織田信長遠州へ援兵を送らるゝ事」、国史研究会 編『国史叢書 武田三代軍記』国史研究会、1916年、53頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441731/38 国立国会図書館デジタルコレクション 
  11. ^ 『武田三代軍記』などの軍記物は、援軍の大将を佐久間信盛と平手汎秀の2人とし、相副(副将)として林秀貞(佐渡守)・水野信元・毛利秀頼美濃三人衆を列挙しているが[10]、これは史実とは異なる。
  12. ^ a b c d 近藤 1926, p. 80.
  13. ^ a b 高柳 1958, p. 159.
  14. ^ 異字で「箕形原」。
  15. ^ この4名は信長の幼少の頃よりの小姓衆だが、勘当を受けてしまったので、家康を頼って遠江に蟄居していた。
  16. ^ a b 高柳 1958, p. 131.
  17. ^ 高柳 1958, pp. 158–159.
  18. ^ 前田利家の話を家臣の村井長頼が聞き留め、長頼の子の長明(村井勘十郎)がまとめたもの。
  19. ^ 村井長明 著「国立国会図書館デジタルコレクション 菅利家卿語話 一名利家夜話、村井勘十郎覚書」、黒川真道 編『日本歴史文庫 〔10〕』集文館、1911年、135-136頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771449/73 国立国会図書館デジタルコレクション 
  20. ^ 浜松市旧伊場村、現中区東伊場の付近。
  21. ^ 浜松市西区舞阪町。今切渡(いまぎれのわたし)という浜名湖の船渡場があった。
  22. ^ 高柳 1958, p. 158.
  23. ^ a b 高柳 1958, p. 227.
  24. ^ 高柳 1958, p. 186.
  25. ^ 高柳 1958, pp. 159–162.
  26. ^ 近藤 1926, p. 201.
  27. ^ 加藤 1997, pp. 826–827.
  28. ^ a b 神谷 1985, p. 64.
  29. ^ a b 神谷 1985, p. 65.
  30. ^ 加藤 1997, p. 831.
  31. ^ a b 中日新聞 H19年3月18日(日)。

参考文献[編集]