コンテンツにスキップ

利用者:Quark Logo/sandbox郡宗保

 
郡宗保
郡主馬像
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文15年(1546年
死没 慶長20年5月7日1615年6月3日
改名 伊丹甚十郎 → 郡十右衛門
別名 良列、良保
通称:主馬首、主馬頭(主馬正)、甚十郎、十右衛門
戒名 梅林宗保居士
官位 従五位下主馬首
主君 荒木村重豊臣秀吉秀頼
氏族 伊丹氏郡氏
父母 父:伊丹親保、母:郡左京亮光成の娘
猶父:郡正信[1]
兄弟 伊丹勘左衞門、伊丹左近大夫、女(加藤九左衞門[2]室)、女(加藤重徳室)、宗保[3]、女(餘田重政[4]室)、伊丹次郎左衞門
治右衛門、金右衛門、女(細川忠興側室)、慶寿院(木村伊勢守室のちに三淵光行室)、兵蔵
テンプレートを表示

郡 宗保(こおり むねやす)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大坂城七手組の筆頭。

伊丹親保の子。

通称は主馬頭(主馬)。子女に藤(細川忠興側室、松の丸)、慶寿院(四女、木村伊勢守室のちに三淵光行室)ら。

略歴[編集]

天文15年(1546年)、摂津国伊丹親保の子として誕生。母は郡光成の娘。外戚の叔父である郡山城郡兵太夫(正信、宗弘、吉興)の猶子となり、郡氏を名乗った。

はじめ摂津国荒木村重に仕えた。幽閉中の黒田孝高と知遇を得て、荒木氏没落後はその口添えで、豊臣秀吉に使番として仕え、黄母衣衆に列する。


摂津国中村郡、美濃国可児郡他で3,000石を賜った。天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐においては、片桐且元とともに上野国東部の城郭を攻めている。文禄元年(1593年)、文禄・慶長の役では肥前国名護屋において諸将の兵糧船調査に携わった。

慶長2年(1597年)9月、従五位下主馬首に叙任し、豊臣氏を与えられている。(柳原家文書・符案)

また、孝高の子・長政とも懇意であり、

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与して、大津城の戦いに従軍。

その後も秀吉の子・豊臣秀頼に仕え、大坂の陣では旗奉行を務めた。慶長19年12月21日、木村重成と豊臣方代表として徳川秀忠の陣にて、講和の誓紙を受け取る役目をおった。大坂夏の陣においては、天王寺・岡山の戦いで敗北し自害しようとしたが、旗を敵方の雑兵に渡ることを潔しとせず大坂城に引き返した。慶長20年(1615年)5月7日に豊臣軍の敗戦のなか自害した。



なお、四女・慶寿院は、はじめ明智光秀の家臣・木村伊勢守に嫁し、萱野弥三左衛門長政(豊臣家臣)の子を引き取った。この男子がのちに黒田氏に仕え、郡正太夫慶成と称した。また、次に嫁した三淵光行との間に3人の男子を儲け、そのうち次男が郡藤正と名乗った。

脚注[編集]

  1. ^ 室は郡光成の娘。
  2. ^ もとは伊丹姓。加藤重徳の兄弟。
  3. ^ 『宗保家伝』では次男とする。
  4. ^ 生母は郡氏で、伯母の子。

参考文献[編集]

  • 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、105-106頁。 
  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、329頁。ISBN 4404017529 
  • 黒田長成 (1878年). “郡宗信伝記集成(写本)”. 所蔵史料目録データベース. 東京大学史料編纂所. 2018年11月10日閲覧。
  • 東京大学史料編纂所 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本史料. 第12編之19』東京大学、1917年、970-972頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450639/550 国立国会図書館デジタルコレクション 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]