コンテンツにスキップ

利用者:Quark Logo/sandbox1不逞鮮人

「不逞鮮人」の称の使用は内地よりも朝鮮半島の新聞社によく見られた。京城日報(1923/4/26)

不逞鮮人(ふていせんじん)とは、在日韓国・朝鮮人に対する四字熟語侮蔑表現[1]。本来は韓国併合後の日本政府に不満を持つ内地の朝鮮出身者や、満州の朝鮮人反体制派[2]、犯罪者をさしたが、不満の有無に関わらず朝鮮人全般を一種見下しても用いられた。戦前は新聞等でも公に使われていたが、現在は差別語として忌避される。

概要[編集]

当時の日本政府・朝鮮総督府が推し進めた文治政治のような包摂的な政策は、民族としての朝鮮人の主体性を認めないものであったが、他方で「不逞鮮人」と決め付けられた朝鮮人に対しては他者性を強調してグループより排除する対象とし、積極的に区別することをした。政府は区別することで、同化政策の中に内在する植民地主義や民族政策の諸矛盾を隠蔽するように働きかけたわけであるが、(同化政策により)日本民族の主体性の境界を危うくする大日本帝国の多民族性化への反発と、反抗的な異民族に対する解消し切れない根強い不安[3]と怒りは、帝国の内における揺らぎ・断層として存在していた。1919年大正8年)の朝鮮三・一独立運動が契機となって巻き起こった大正期の「不逞鮮人」言説は、新聞を通じて国内で展開されていき、1923年(大正12年)の関東大震災後に不逞鮮人と烙印を押された在日朝鮮人への迫害・虐殺事件として現れた時、排日朝鮮人に対する危機感は最高潮に達したのである[4]。「不逞鮮人」という言葉は、いつしか恐怖(または不安)を想起させる民族蔑称となって、本来大日本主義における包摂の例外に過ぎなかったものが、最終的には排他的他者性だけが強調される差別語となった。

用語の起源[編集]

今村鞆によると、「排日鮮人」という語を韓国統監府の伊藤博文が嫌って公文書に表記することを禁止したため、警務局の誰かによって造られたという[5]。 現在は差別語とみなされる[6]。また戦前には「怪鮮人[7]と共に新聞等でも公に使われていた。

時代背景の推移[編集]

「不逞鮮人」の表現は大正期になって登場した。鮮人は朝鮮人の略[8]であるが、元々は四字熟語ではなく「不逞」と「鮮人」は切り離した意味で用いられていた。時代背景と共に新聞紙面等の日本語用法には大別して三種類あり、これには時代による変遷がある。

反体制派[編集]

最初に登場した不逞鮮人とは「不逞鮮人」であり、国内外の主要な反体制派の総称とするものであった。「主義者」と呼ばれた無政府主義者社会主義者共産主義者を(日朝出身に限らず)不逞の輩とし、朝鮮人の略である鮮人と合わせて、主義者と朝鮮人という警察や軍隊が取り締まりの対象とした当時の代表的な反体制勢力を同類として表現したものだった[9]わけである。また当時は主に外地の朝鮮人をさしており、特に満州や国境付近にいる朝鮮人を国家の統制を受けない存在として問題視していた。国民の間にすでに潜在していた朝鮮人差別感情と、前述の左派のイデオロギーとを結び付けることで彼らの評判を落とすことも目的としており、直接関係のない両者をさも同類のように「不逞鮮人と主義者の一派」など故意に組み合わされたものでもあった。これらは存在しない脅威か、存在を誇張した脅威であったが、こういった表現は、現在よりも扇情的であった新聞紙面の表題に多く見られた。

三・一運動[編集]

次に登場した不逞鮮人とは「不逞鮮人」であり、独立運動家など一部の日本支配に馴染まない朝鮮出身者だけを問題視し、その他の従順な朝鮮系国民と区別して表現したというものであった。これは1919年大正8年)の三・一運動が契機となって「新たに形成された朝鮮民族のアンチ・コロニアル勢力を凶暴なテロリストとして表象する」ものであった[10]。日本国内で朝鮮問題が関心を集めるようになると、世論は独立運動は天道教キリスト教の一部のリーダーに扇動されたもので民族自決を唱えることは同じ民族を先祖にもつ日朝両民族の歴史に反する(日鮮同祖論)と考えたが、一方で武断政治が彼らの反発を生んでいるのだとも考えた。そこで朝鮮総督となった斉藤実は、将来的な自治を前提とした文治政治を公約として、朝鮮人自身の朝鮮統治参加を促す方針転換を行った。日本の世論はこれで満足したが、それにも満足しない朝鮮独立運動家たちは、不逞であると見なされ、彼らがテロ暗殺といった暴挙を起こすのではないかという不安もあって、大衆の憎悪と恐怖の的とされた[11]。当時言論界に影響力があった『中央公論』の寄稿者で民本主義者吉野作造は、独立運動を不逞と見なすことに反対し、上海臨時政府呂運亨を「不逞の輩」とすることに異議を唱えたが、大正デモクラシーのリベラリストの意見は、国粋主義日本主義といった大和民族の優越と唱える右翼思想の台頭によって大衆の支持を得られなかった。 1924年(大正13年)の川島清治郎の『朝鮮論』では、「所謂不貞鮮人なるものも近来は愛國義烈なるものは少なく獨立自治を標榜して金銭を同胞の間に貪り糊口渡世の資となす者多きを加へて居ると云ふ。北鮮國境地方に出没する不貞鮮人団は所謂朝鮮馬賊と称するものにて純然たる一種の強盗に過ぎないとのことである。」とあり、同胞にとっても迷惑な存在して取り締まりの対象と言及されている[12]

八紘一宇[編集]

最後に登場する不逞鮮人は「不逞鮮人」であり、朝鮮人こそが不逞で怪しからんというもので、朝鮮民族そのものの存在を究極的に否定する差別意識であった。これは大日本帝国天皇八紘一宇と東洋永遠の平和の理想を追求しているのに、天皇の大御心に背く「半島の人」はすべて不逞鮮人である[13]という理屈であり、積極的な同化許容と日本への忠誠を示さないで朝鮮人であり続ける者は不逞であると見なされた。また官憲が徹底して不逞鮮人を取り締まったことと、1923年関東大震災直後に見られたデマによる虐殺の恐怖が、在日韓国・朝鮮人をして「日本名」の使用を決意させ、門札に使うようになった原因の一つとも言われる[9]が、お互いがお互いに抱いた恐怖心は、反響しあって差別を助長した。二重橋爆弾事件桜田門事件上海天長節爆弾事件有吉公使暗殺未遂事件と、日本統治に反対する朝鮮人が今度は実際にテロ事件を頻発させると、創り出された不逞鮮人の差別的イメージは現実のもののように受け止められるようになった。日本政府は一貫して同化政策を推し進めたが、差別意識はすでに世間一般に顕在化しており、同化を進めることに対しては朝鮮だけでなく日本でも少なからず反発がおきた。特に皇民化を拒む勢力に対してはその憎悪は倍となった。極端な例であるが、1941年昭和16年)、柳川平助司法大臣近衛内閣)が記者会見で放言した『不逞鮮人去勢論[14][9]は、まさしくナチス流の絶滅政策・民族浄化に言及したようなものだったが、ここに及んではもはや差別は肯定すらされた。しかし日本政府は採用せず、終戦まで内鮮一体・皇民化が進められた。

官僚用語からマスコミ言説に[編集]

関連図書[編集]

小説
プロレタリア文学中西伊之助が著した短編小説。1922年代に『改造』誌9月号で発表された。外地の日本語文学選集3「朝鮮」に収録[15]。中西はこの他にも不逞鮮人が登場する作品『霧』『汝等の背後より』など、短編・長編小説、朝鮮に関係するエッセイなどを幾つも発表している。
  • 湯浅克衛、『カンナニ』 大日本雄弁会講談社 (1946年)
同じくプロレタリア文学作品。
満州文学作品の1つ。作者は朝鮮系日本人で本名・張喚基。

脚注[編集]

  1. ^ 今村 1930, pp.389-390
  2. ^ 小林諦亮「国立国会図書館デジタルコレクション 不逞朝鮮人の正體」『大陸ローマンス』三水社、1927年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280035/154 国立国会図書館デジタルコレクション 
  3. ^ 皮肉にもそれは日本人の感情に根付いた八紘一宇の否定、拒絶であった。
  4. ^ アンドレ・ヘイグ 2011, pp. 81–82.
  5. ^ 今村鞆国立国会図書館デジタルコレクション 歴史民俗朝鮮漫談』南山吟社、1930年、389-390頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886449/215 国立国会図書館デジタルコレクション 
  6. ^ 金富子関東大震災時の「レイピスト神話」と朝鮮人虐殺――官憲史料と新聞報道を中心に』『大原社会問題研究所雑誌』 (669), 1-19, 2014-07 法政大学大原社会問題研究所
  7. ^ 京城日報1921年8月17日、神戸又新日報1923年4月25日
  8. ^ 現在と違って、当時「鮮人」は平易な言葉で、一般書籍、新聞、公文書等にも書かれていた。
  9. ^ a b c 金 1991
  10. ^ アンドレ・ヘイグ 2011, p. 81.
  11. ^ 松尾尊兊『近代日本と石橋湛山 : 『東洋経済新報』の人びと』東洋経済新報社、2013年。ISBN 9784492061909 
  12. ^ 川島清治郎国立国会図書館デジタルコレクション 不逞朝鮮人の取締」『朝鮮論』大日本社、1924年、61頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922797/34 国立国会図書館デジタルコレクション 
  13. ^ 大江志乃夫; 川村湊『文化のなかの植民地』 第7、岩波書店〈近代日本と植民地〉、1993年。ISBN 400010487X 
  14. ^ 朝鮮人男子の睾丸を抜きとり、朝鮮人女性の卵巣を切り取る、朝鮮民族抹殺政策のこと。当時の政府は内鮮一体を目指して同化政策を行っており、彼の主張は実行されていない。
  15. ^ 黒川創 編『朝鮮』新宿書房〈<外地>の日本語文学選3〉、1996年。ISBN 4880082163 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

  • チョン (蔑称)二鬼子高麗棒子
  • 馬賊間島
  • 朴烈 - 雑誌『太い鮮人フテイセンジン』の発行者。太いはダブル・ミーニングで、差別語に対する反発でつけたタイトル。