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利用者:Quark Logo/sandbox2寺田屋事件-下書

寺田屋事件
場所 京都伏見区寺田屋伊助方
標的 尊王攘夷の過激派志士40名程度
(多くは戦わず投降一部は逃亡)
日付 文久2年4月23日1862年5月21日
概要 伏見の旅籠(船宿)の寺田屋に滞在していた薩摩藩久留米藩岡藩秋月藩等の尊王攘夷志士のうち、薩摩藩から脱藩した志士の一部を、鎮撫使としてやってきた薩摩藩士が上意討ちと称して殺傷し、残りの多くを投降させた。
原因 志士らは佐幕派関白九条尚忠京都所司代酒井忠義の暗殺するために寺田屋に集結していた。薩摩藩主の父島津久光はこれを抑えるために奈良原繁ら9名を伏見に送って対処を命じた。
攻撃側人数 9名
武器
死亡者 鎮撫使側:1名、志士側:6名
負傷者 鎮撫使側:4名、志士側:2名(重傷の2名は切腹)
動機 上意討ち
対処 投降した者のうち、薩摩藩出身志士21名は帰藩謹慎、久留米藩出身志士9名は帰藩謹慎、田中河内介ら浪人志士6名は薩摩藩で引き取ると称して海上で殺害された。ほか、美玉三平ら数名から十名程度は逃亡した。
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寺田屋事件(てらだやじけん)は、江戸時代末期の文久2年4月23日1862年5月21日)に、伏見の旅館(船宿)寺田屋に滞在していた尊王派(勤皇派)の志士が弾圧された事件。別名に寺田屋騒動(てらだやそうどう)とも呼ばれる。

薩摩藩の事実上の指導者で藩主茂久の父島津久光はこのとき公武合体を推進する立場で、自らの入京を機に勝手に挙兵討幕を企てる薩摩藩士有馬新七らを快く思わず、志士らの暴発を防止しようと、藩士に命じて従わぬものを上意討ちさせた。同郷の藩士同士が斬り合う凄惨な乱闘となり、7名が死亡して2名が致命傷を負い、後に切腹したものを含めて9人の殉難者を出した。事件後、久光は多くの志士を京都から追放し、勅使大原重徳を擁して江戸に向い、一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職とする幕政改革を行った。

経緯[編集]

九州遊説[編集]

尊王派の志士清河八郎[注釈 1]は、文久元年(1861年)に江戸で人を殺して追われる身となって京都に逃亡していたが、同じ勤皇の志を抱く青侍田中河内介[注釈 2]と意気投合して共謀し、青蓮院宮(久邇宮朝彦親王のこと)の令旨を受けたと偽称して諸藩の志士を糾合し、勤皇の旗を掲げて倒幕運動を興そうと計画した[1][2]

清河は同志安積五郎[注釈 3]伊牟田尚平[注釈 4]を連れ、(忠能の子)中山忠愛および田中河内介の紹介状を持って、11月15日、熊本に入った。まず(肥後藩尊王派の重鎮)松村大成[注釈 5]に会って賛同を得て、松村宅を根城としていた志士と語らい、轟武兵衛(肥後藩士)、真木和泉久留米藩士)、平野次郎福岡藩士)、小河弥右衛門岡藩士)ら諸藩の有志を仲間にした[3][4]

清河は当初より薩摩藩を倒幕の盟主とすることを企んでいたが、薩摩は浪人が簡単に入れる場所ではなかった。平野は安政5年(1858年)に西郷吉之助(隆盛)月照に従って、万延元年(1860年)にも当時は高橋新八といった村田新八税所篤に伴われて、2度の入国した経験があったので、平野と同国出身の伊牟田が薩摩に派遣されることになった。12月9日、2人は変名を使って薩摩小川内関所[注釈 6]を通過して、10日に鹿児島に入ったが、農民に怪しまれて捕縛された。しかし藩吏の同情で、側役小松帯刀に会わせてもらえることになった。肝付家の生まれの小松は伊牟田が生家の旧臣であると知り、平野が大久保一蔵(利通)とは旧知であると言ったことから話が進んで、大久保を呼んで交歓し、大久保は「挙藩勤皇、明春入京の藩論」を教え、金子10両を与えて無事に帰れるように取り計らってくれた。17日、2人はに鹿児島を出て、伊集院(日置市伊集院町)宿駅で、伊牟田の家族と是枝柳右衛門[注釈 7]美玉三平[注釈 8]が合流。有馬新七田中謙助が話しをするために待っていて、さらに柴山愛次郎橋口壮介が加わり、薩摩藩の態度に不満を持っていた彼らは計画に賛同して同志となった[5]

文久2年(1862年)正月、柴山愛次郎と橋口壮介は江戸詰糾合方に転勤になった。


久光上洛[編集]

島津久光像(尚古集成館所蔵)

島津久光は、先主島津斉彬の実弟で、実子の茂久(忠義)が斉彬の遺命で養嗣子となって藩主を継いだため、藩主の父として藩の実権を握っていた。久光には先主の公武合体の遺志を紹ぐという思いが強く、公武合体派の前左大臣近衛忠煕の子・権大納言忠房に斉彬の養女(島津兵庫の娘)を嫁がせて関係を密にしていたが、近衛家より時勢挽回に密使を受けたのに感激して、12月に大久保一蔵を京都の忠房に派遣して「久光、三州の兵を率いて上洛し、勅命を奉じて、幕政を改革(釐革)し候べし」と伝えさせた。しかし父が安政の大獄で失脚したことがあった忠房は驚愕し、書状を送って上洛を思いとどまるよう制止したが、すでに決意を固めていた久光はこれを聞かずに、江戸藩邸の改築を名目として、小松帯刀以下1,000名の藩兵をつれ、文久2年3月16日に鹿児島を出発した[6]

突如、藩兵千名を率いて上洛する久光は日本中の尊王派の希望をその身に背負っていた。しかし久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体がその路線であった。また久光は秩序を重んじる厳しい性格で、すでに西郷隆盛、村田新八、森山新蔵を捕縛して大坂から帰藩させるように命じて粛清しており、京都の志士の思惑とは全く趣を異にした考えの持ち主であった。それで4月13日に伏見に到着した久光は、16日に入京し、朝廷より志士始末の命を授かる。

この展開に驚愕した薩摩藩の過激派は、憂国の念から憤激し、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介らは、諸藩の尊王派志士、真木和泉、田中河内介らと共謀して、関白九条尚忠京都所司代酒井忠義を襲撃してその首を持って久光に奉じることで、無理矢理にでも蜂起を促すということに決した。この襲撃の前に、根城としていた薩摩藩の二十八番長屋から出て、伏見の船宿寺田屋に集まることを計画していたが、当時寺田屋は薩摩藩の定宿であり、このような謀議に関しての集結場所としては格好の場所だったようである。

志士暴発の噂を聞いていた久光は、側近の大久保一蔵、海江田武次奈良原喜左衛門を次々に派遣して説得を命じ、藩士を抑えようと試みたが失敗した。23日、薩摩藩邸では永田佐一郎が翻意し、決起を止めようとしたが止められなかったために切腹した。これによって計画の決行日が迫ったことを知った在番役高崎左太郎、藤井良節(工藤左門)の二人は急ぎ京都に注進した。久光は驚き、出奔藩士を藩邸に呼び戻して自ら勅旨と今後の方針を説明して説得しようと考えたが、一方で従わぬ場合には上意討ちもあると言い含めて、奈良原喜八郎大山格之助道島五郎兵衛、鈴木勇右衛門、鈴木昌之助、山口金之進、江夏仲左衛門、森岡善助の特に剣術に優れた藩士8名を鎮撫使に選び、派遣することにした。奈良原、道島、江夏、森岡が本街道を、大山、鈴木、山口が竹田街道を進んだ。後から上床源助が志願して加わり、計9名となった。

寺田屋騒動[編集]

23日夜、寺田屋に到着すると、奈良原喜八郎ら4名は有馬新七に面会を申し出たが、2階から橋口伝蔵に「いない」と言われて断られたので、江夏と森岡が力づくで2階に上がろうとして押し問答した。柴山愛次郎が応対して1階で面談することになった。有馬と田中謙助、橋口壮介が降りてきて議論に加わったが、埒が明かず、薩摩藩士はともかく藩邸に同行するように求めたが、これが拒否された。そこに大山ら4名が追いつき、寺田屋に入った。奈良原は説得を続けたが、君命に従わぬのかと激高する道島が「上意」と叫んで抜打ちで田中謙助の頭部を斬り、こうして“同志討ち”の激しい斬り合いが始まった。

斬られた田中謙助は眼球が飛び出たまま昏倒。山口も抜刀して背後から柴山愛次郎を斬り捨て、これらを見た有馬新七は激高して道島に、橋口壮介は奈良原に斬りかかった。有馬は剣の達人であるのだが、渡り合っていて刀が折れたので、道島に掴みかかって組み合い壁に押さえつけた。近くにいた橋口吉之丞は狼狽してか加勢できずにいたので、有馬が「我がごと刺せ[注釈 9]」と命じ、橋口吉之丞はその言葉に従って有馬の背中から道島と共々貫いて両名を絶命させた。他方、橋口壮介は奮戦していたが、奈良原に肩から胸まで斬られて倒れ、最期に水を所望して飲んだ後で息絶えた。森山新五左衛門はちょうど厠に降りてきたところにこのような斬り合いが始まり、斬られて重傷を負った。大山格之助は梯子下で待っていて、騒動を聞いて降りてきた弟子丸龍助を刺殺し、さらに降りてきた橋口伝蔵の足を払った。橋口伝蔵は立ち上がって刀を振るい、鈴木勇右衛門の耳を切り落としたが、鈴木昌之助に刺されて絶命した。そこにまた降りてきた西田直五郎を森岡が槍で突き、西田は転がり落ちたが、刀を振るって森岡と相打ちのような形で息絶えた。

2階は下の状況がわかっておらず、美玉三平は伏見奉行の捕方が来たと誤解して「捕方だ、防戦せよ」と叫んだことから、柴山竜五郎を先頭に各々抜刀して1階に降りてこようとしたので、奈良原[注釈 10]は刀を投げ捨ててこれに立ち塞がり、「待ってくれ、君命だ、同志討ちしたところで仕方がない」と、ともかく剣を収めて同行するように求めて「仔細な話は直接久光公に聞いてくれ」と訴えた。1階の別の部屋にいた(志士側の)真木和泉と田中河内介が出てきてこれに同調して説得したので、ようやく治まった。

騒動の始末[編集]

大黒寺の伏見寺田屋殉難九烈士之墓

この戦闘によって、鎮撫使側では1名(道島五郎兵衛[注釈 11])が死亡、1名(森岡善助[注釈 12])が重傷、4名(奈良原喜八郎、山口金之進、鈴木勇右衛門、江夏仲左衛門)が軽傷を負った。残りの3名は無傷だった。志士では、6名(有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助、森山新五左衛門)が重傷を負ったが、この負傷者2名は後で切腹させられた。

まだ2階にいた尊王派の薩摩藩士の大半は投降し、美玉三平などは逃亡した。岩元勇助、西郷信吾大山弥助三島弥兵衛、木藤市助(市之介)、伊集院直右衛門篠原冬一郎、坂元彦右衛門、森新兵衛(真兵衛)、深見休蔵吉原弥二郎永山弥一郎柴山龍五郎、是枝万助(柴山矢吉)、林正之進、谷元兵右衛門、吉田清右衛門、町田六郎左衛門、有馬休八、岸良三之介、橋口吉之丞の21名が帰藩謹慎を命じられた。

なお、京都藩邸で療養中の薩摩藩士山本四郎(義徳)もこれに加わるところであったので、帰藩謹慎が命じられた、しかし彼はこれを佳しとせず、服さなかったので切腹させられた(彼を含めて9人の殉難者が烈士とされた)。

残りの他藩尊王派志士たちの多くも投降し、何人かは逃亡した。真木和泉とその息子真木菊四郎、酒井伝次郎、鶴田陶司、原道太、中垣健太郎、荒巻平太郎、吉武助左衛門、古賀簡ニ、淵上謙三久留米藩に引き渡され、他数名は土佐藩等の所属する藩に引き渡された。

引き取り手のない浪人は、鹿児島で引き取ると申し渡された。これは薩摩藩では月照の時と同じく日向への道中での斬り捨てを暗に意味していたが、それを知らない浪人の田中河内介とその息子田中瑳磨介、甥千葉郁太郎、さらには中村主計[注釈 13]、青木頼母、そして秋月藩士だが同行を望んだ海賀宮門はこの条件を受け入れ、進んで船に乗った。4月28日、大坂より二船に分乗して出航。5月2日、田中親子は薩摩藩士によって斬殺されて海へ投げ捨てられた。遺体は小豆島に漂着して同地の農民によって埋葬された。海賀、千葉、中村は7日に日向細島沖で決闘と称して斬殺されて海へ捨てられ、遺体は近くの金ヶ浜に漂着。同じく埋葬され、中村を除く2名は殉死者とされた[9][10][注釈 14]。青木は田中親子と同船で同じく斬られたが、遺体は上がらなかったのか、墓はない。

この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かった。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 庄内藩出身の郷士。当時は浪人。
  2. ^ 大納言中山忠能の家臣。
  3. ^ 安積(あさか)と読む。江戸の町人。もともと占い師で、千葉道場で剣術も学ぶ。後に天誅組の変に参加して捕縛、処刑された。
  4. ^ 薩摩藩入領主の肝付家の家臣で、脱藩して江戸にいた。藩主からみれば、陪臣にあたる。
  5. ^ 玉名郡安楽寺村出身の医者で肥後の勤王活動家。
  6. ^ 鹿児島県伊佐市大口にある。薩摩領内にある山間の関所。
  7. ^ 鹿児島県谷山郷の商家出身で、京都にでて田中河内介、松村大成、小河一敏らと活動した勤皇家。
  8. ^ 薩摩鹿児島藩士。本名は高橋親輔(祐次郎)。
  9. ^ 自分も一緒に突き刺せの意味。
  10. ^ 喜八郎が説得したと、山口金之進は報告したとの記述がある[7]
  11. ^ 彼はこの事件で亡くなった人物で唯一、烈士とされていない。
  12. ^ 森岡は重創を負って一時危篤に陥ったが、後日快方に向かって生存した。
  13. ^ 諱は重義。肥前島原藩藩士有馬太郎および中村貞太郎(北有馬太郎)の弟[8]
  14. ^ 田中は大納言中山忠能の旧臣であるだけでなく後の明治天皇の教育係であって、西郷隆盛はこの久光の暴挙に憤激したと伝えられる。

出典[編集]

  1. ^ 上田 1923, p. 114.
  2. ^ 下中 1934, p. 128.
  3. ^ 上田 1923, p. 115.
  4. ^ 下中 1934, p. 129.
  5. ^ 下中 1934, pp. 130–131.
  6. ^ 上田 1923, pp. 116–117.
  7. ^ 『大久保利通日記』
  8. ^ 長崎県教育会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大礼記念長崎県人物伝』長崎県教、1901年、43頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960654/68 国立国会図書館デジタルコレクション 
  9. ^ 宮崎県 編『国立国会図書館デジタルコレクション 日向の聖地伝説と史蹟』宮崎県、1934年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242699/123 国立国会図書館デジタルコレクション 
  10. ^ 徳重浅吉『国立国会図書館デジタルコレクション 京都の維新史蹟』京都市教育局文化課、1943年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042175/52 国立国会図書館デジタルコレクション 

参考文献[編集]

外部リンク[編集]