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野里 (姫路市)[編集]
野里(のざと)は兵庫県姫路市の地域名、および現行の町名。
地域名としては姫路市中心部の北東に広がる、旧野里村(のざとむら、埜里村とも)に属する一帯を指す。
町名としてはその一部で、以下に示す各町を除いた区域である。郵便番号670-0811。
広義の野里に含まれる町丁[編集]
町名 | 読み | 郵便番号 | 世帯数 | 人口 | 校区 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
坊主町 | ぼうずまち | 670-0011 | 野里小/城乾中 | |||
河間町 | こばさまちょう | 670-0001 | ||||
鍵町 | かぎまち | 670-0009 | ||||
鍛冶町 | かじまち | 670-0002 | ||||
野里寺町 | のざとてらまち | 670-0867 | ||||
大野町 | おおのまち | 670-0868 | ||||
威徳寺町 | いとくじまち | 670-0816 | ||||
梅ヶ枝町 | うめがえちょう | 670-0817 | ||||
橋之町※ | はしのまち | 670-0008 | ||||
福本町※ | ふくもとまち | 670-0004 | ||||
米屋町※ | こめやまち | 670-0003 | ||||
五郎右衛門邸※ | ごろうえもんてい | 670-0857 |
(※印は姫路城の外堀内側に含まれる町)
町名 | 読み | 郵便番号 | 世帯数 | 人口 | 校区 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
野里 | のざと | 670-0811 | 大半:水上小/増位中 | |||
南端部:東小/東光中 | ||||||
ごく一部:野里小/城乾中 | ||||||
野里東同心町 | のざとひがしどうしんまち | 670-0863 | 野里小/城乾中 | |||
野里新町 | のざとしんまち | 670-0862 | ||||
野里中町 | のざとなかまち | 670-0864 | ||||
野里堀留町 | のざとほりどめちょう | 670-0866 | ||||
野里東町 | のざとひがしまち | 670-0861 | ||||
野里月丘町 | のざとつきおかちょう | 670-0865 | ||||
野里慶雲寺前町 | のざとけいうんじまえちょう | 670-0813 | ||||
野里大和町 | のざとやまとちょう | 670-0815 | ||||
野里上野町1丁目 | のざとうえのちょう | 670-0814 | ||||
野里大和町2丁目 |
内町 (姫路市)[編集]
内町 (姫路市) | |
---|---|
地域名 | |
姫路市中心部。赤線内が内曲輪、緑線内が中曲輪、青線内が外曲輪(内町)。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 兵庫県 |
市町村 | 姫路市 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
市外局番 | 079[1] |
ナンバープレート | 姫路 |
内町(うちまち)は兵庫県姫路市の中心部を指す地域名。おおむね姫路城の外曲輪の範囲内にある旧町人地・中下級武士の居住区を指し、地域名もそれに由来する[2]が、行政上の地名ではない。
大半が姫路市立白鷺小中学校の校区であるが、東部・北部および南西部の一部は隣接校区に属する。内町という地域区分は歴史的な区分であり、小学校の校区名(白鷺校区(あるいは統合前の城南校区、城巽校区)、城東校区、野里校区など)で分類される事が多い[3]。
本項では南に隣接する地区である飾磨津口(しかまづぐち)についても解説する。飾磨津口の名称は姫路城の飾磨津門の外側に近接した地区であることに由来する。また、北に隣接する野里のうち姫路城外曲輪に含まれる町丁も示す。
歴史[編集]
姫路市中心部は古代は「日女道」、中世は「姫道村」のち「姫路村」と呼ばれ飾東郡に属した[4][5]。姫路城改修前は中村・福中村・宿村・国府寺村に分かれていた。
江戸時代[編集]
1601年(慶長6年)より行われた池田輝政による姫路城改修に伴う「慶長の町割り(町直しとも)」において、天守を始めとした内曲輪と家老・上級藩士の居住区である中曲輪(現在の姫路市本町68番地とこれより分割された地番(総社本町を含む)に相当)の外側に、中・下級藩士の居住区および町人地・寺院が配置されたのが内町の起こりである。中曲輪の門を通行するには手形を必要とし、外曲輪すなわち内町とは厳然と区別されていた。
内町の町割りは五軒邸付近や城外に顕著に残る「条里制に由来すると考えられる町割り」、射楯兵主神社(播磨国総社)付近の「播磨国府に由来すると考えられる町割り」および「慶長の町割りに際して、広峰山を山当てにした竪町筋を基軸とする町割り」の三種に分けられる[6]。
内町からさらに四方に延びる街道沿いにも下級藩士の居住区および町人地が設けられ、野里門の北が野里、外京口門の東が神谷、飾磨津門の南が飾磨津口、そして福中門・車門の西が船場と呼ばれている[7]。飾磨津口は飾磨津(姫路港)に通じる飾磨津門の外側を指し、曲輪外であったが町方に属した[8]。野里は播磨国風土記に「大野郷」として名前が見える古い町で、中近世には芥田氏が鋳物師棟梁として力を持っていた[9]。船場は本多忠政が二股川を整備して高瀬舟を行き来出来るようにして「船場川」と呼ばれるようになり、その集積した物資の問屋を置いた場所である[10]。神谷は神屋ともいい(現在の町名は神屋町である)、総社の御旅所があったからという説、紙漉きがあったという説、九所御霊天神社に由来する説などがある[11]。
内町における西国街道は本来は本町や坂元町を通っていたが、寛永の頃に中堀を浚渫した土砂を道に敷いたために通行の障害となり、俵町や福中町へ迂回するようになっている[12]。
明治・大正時代[編集]
1871年(明治4年)廃藩置県以後は内曲輪・中曲輪は軍用地として武家屋敷の撤去が行われ[13]「姫路市本町68番地」となり[14]、第10師団・歩兵第10連隊・歩兵第39連隊他の関連施設が建設される[15]。
1888年(明治21年)には飾磨津口に姫路駅が開業、1889年(明治22年)4月1日に姫路に市制が施行された際には内町はその中心となる。飾磨津口の各町は1875年(明治8年)に豊沢村の一部となり、1888年(明治21年)には山陽鉄道が姫路駅を外堀の南側に開業外曲輪や中曲輪の城壁の撤去や堀の埋め立てが徐々に進んでゆく。飾磨津口の各町は1889年の市制施行時には国衙村となっていて姫路市に含まれなかったが、1912年(明治45年)4月1日に国衙村より分離して姫路市に合併する[16]。
昭和以後[編集]
1945年(昭和20年)の7月3日深夜の姫路空襲で内町はごく一部を除き焼失・壊滅してしまい、姫路城など以外の戦前からの建築物はほぼ残存していない。瓦礫撤去のために1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)にかけて、福中町から西二階町の間の道路に線路を引いて街中に蒸気機関車が乗り入れている[17]。終戦直後は残存した陸軍の諸施設を内町で焼失した市役所や学校の代替として一時使用している。
戦後は曲折が多くて狭い旧城下町時代の道路網を近代的な広い道路網に改修することを柱とした戦災復興都市計画による大幅な区画整理が行われ、中心部を姫路駅から姫路城大手門まで貫通する幅50mの大手前通りや東西の国道2号などが建設される[18]。また船場川が本多忠政による改修で外曲輪南西角で大蔵前町の東へ屈曲していたのを直線形に改めて旧流路を埋め立てている[19]。1981年(昭和56年)2月14日に東側の復興第2工区が、1984年(昭和59年)9月21日に西側の復興第1工区が換地処分され[20][21]町名が変更・整理されている。
戦後のドーナツ化現象で一時は人口が減少傾向にあったが、2009年(平成21年)ごろより再開発で大型マンション等が建設されていることにより人口は増加傾向にある[22]。
含まれる町丁[編集]
凡例・補足:内町の分類は橋本政次『姫路市町名字考』p.2-10を、飾磨津口は同p.20-22を、野里は同p.10-12を元に現在の町名に対応させた。明治初期から市制施行まで各町名に「姫路」を冠している。校区欄の校名は「姫路市立○○小学校/中学校/小中学校」を省略表記。旧城南小・旧城巽小の中学校は旧白鷺中。※印は教育委員会への届出により白鷺小中学校への変更可能。
町名 | 読み[23] | 郵便番号[24] | 世帯数[23] | 人口[23] | 主な施設・備考/概要 | 校区[25] |
---|---|---|---|---|---|---|
本町 | ほんまち | 670-0012 | 281[26] | 496[26] | 本町のうち国道2号以南が内町
以北は中曲輪(本町 (姫路市)を参照) |
白鷺小中(旧・城南小、 東部一部は旧・城巽小) (北側一部は野里小/城乾中) |
内町の中心、中ノ門の前の町。町年寄の役場である年行事所がおかれた[27]。 | ||||||
坂元町 | さかもとまち | 670-0016 | 88 | 121 | 白鷺小中(旧・城南小) | |
戦前の繁華街。映画館の山陽座があったが戦後に光源寺前町へ移転[29]、東駅前町の姫路フォーラス内を経てテラッソ姫路内のアースシネマズ姫路となる。 | ||||||
福中町 | ふくなかまち | 670-0017 | 142 | 265 |
| |
旅籠町。伊能忠敬も1811年・1813年の二度宿泊している。名称は府中の転じたものという[30]。 | ||||||
西二階町 | にしにかいまち | 670-0901 | 158 | 310 | ||
西国街道沿いに脇本陣が置かれ、戦前期は非常に栄えた商店街だった[32]。 | ||||||
魚町 | うおまち | 670-0905 | 20 | 38 |
| |
区画整理前は西魚町と呼ばれて戦前は西端に武徳殿が置かれ武道場の他種々の催しに用いられた一方、芸妓を置いた検番があった。戦後も歓楽街として知られる[33]。 | ||||||
立町 | たてまち | 670-0903 | 34 | 65 |
| |
区画整理までは竪町と称した。街道に直交することから「姫路の七不思議のひとつ・横に竪町」[34]と呼ばれた[35][36][37]。 | ||||||
南町 | みなみまち | 670-0912 | 64 | 96 | ||
飾磨津門の内側に位置する[38]。元禄ごろは内豆腐町と呼ばれた[39]。 | ||||||
白銀町 | しろがねまち | 670-0902 | 37 | 70 | ||
大手前通りと十二支前線の交差点西側。銀行・保険・証券会社のビルが多く建つ[40]。 | ||||||
塩町 | しおまち | 670-0904 | 117 | 161 |
|
白鷺小中(旧・城南小) (西側一部は船場小/琴陵中※) |
元「西塩町」。第二次大戦前は芸妓置屋や待合がある他は静かな屋敷町だったが、戦後は魚町地区の一角としてスナックやバーが軒を並べる[41]。 | ||||||
十二所前町 | じゅうにしょまえちょう | 670-0911 | 136 | 221 | ||
江戸時代は武家地。第二次大戦後はビル街となる[42]。 | ||||||
綿町 | わたまち | 670-0921 | 138 | 316 |
|
白鷺小中(旧・城巽小) |
姫路藩家老河合道臣(寸翁)による藩政改革の一環として、藩内木綿の専売の決済のために藩札の一種・木綿切手を発行する切手会所と木綿買取を行う国産木綿会所とを置いた[43][44]。 | ||||||
二階町 | にかいまち | 670-0922 | 57 | 99 | ||
池田輝政の町割りの際に、姫路で初めて2階建ての建物が出来たことによるという[45][46]。 | ||||||
呉服町 | ごふくまち | 670-0923 | 48 | 84 |
| |
武士たちに必要な呉服を扱う商人が多くいたという[45]。 | ||||||
紺屋町 | こんやまち | 670-0924 | 45 | 76 |
| |
町割り当初は漆絵細工の職人がいたことから「塗師町」と称したが、のちに播磨産の藍をもちいた染屋が出来たことから「東紺屋町・西紺屋町」と称した[47]。 | ||||||
亀井町 | かめいまち | 670-0925 | 48 | 77 |
| |
町割り当初は籠手を扱う店があったことから「小手屋町」と称したが、カメがいる井戸があったと言うことで亀井町と称する[47]。 | ||||||
東駅前町 | ひがしえきまえちょう | 670-0926 | 206 | 412 |
| |
もとは「光源寺前」。侍屋敷や家老高須隼人の下屋敷があった。光源寺は戦後の区画整理で十二所前町へ移転[48]。 | ||||||
元塩町 | もとしおまち | 670-0937 | 355 | 730 |
| |
町割り当初の「熊川(ゆうせん)町」は当地に「忍熊川(おしくまがわ)」が流れていた事による。のちに塩蔵が出来たという。文化年間に庶民向け学舎「熊川舎」が置かれた[46]。 | ||||||
古二階町 | こにかいまち | 670-0936 | 182 | 373 |
| |
二階町が西へ延びるにつれて当初の地域を古二階町と称した。東側の旧町名「茶町」は遊女宿にちなむという[46]。 | ||||||
北条口1丁目 | ほうじょうぐち | 670-0935 | 101 | 132 | ||
北条口2丁目 | 245 | 540 | ||||
北条口3丁目 | 269 | 593 |
| |||
北条口4丁目 | 80 | 158 | ||||
北条口5丁目 | 133 | 274 | ||||
元侍屋敷地。南東にある北条への「北条口門」の内側に位置する[49]。北条口参照。 | ||||||
神屋町6丁目 | かみやちょう | 670-0836 | 190 | 353 | 神谷地区にまたがる
一部が外曲輪内(旧・北条口) | |
神屋町2~6丁目[50]のうち、唯一内町にまたがり、校区も白鷺小中学校区とされている[49]。 | ||||||
朝日町 | あさひまち | 670-0934 | 232 | 275 | 飾磨津口にまたがる
一部が外曲輪内(旧・北条口)
| |
1912年(明治45年)に国衙村より分離編入の際、内町の南東にあることからの朝日の連想と、同年の明治天皇の「朝つく日」に始まる御製[51]にあやかって命名された[49]。 | ||||||
平野町 | ひらのまち | 670-0933 | 179 | 448 |
| |
平野村(現・北平野)からの移住者が開いた事による[52]。 | ||||||
坂田町 | さかたまち | 670-0931 | 272 | 533 | 東側一部は旧名「下寺町」
|
白鷺小中(旧・城巽小) (東側一部は城東小/東光中※) |
町割り時に防衛ラインとして寺院を集めた(旧下寺町)が、そのために町屋が片側に寄ったために「左片町」と呼ばれたのが変化したとも、坂であったともいう[54]。 | ||||||
大黒壱丁町 | だいこくいっちょうまち | 670-0853 | 109 | 216 | 白鷺小中(旧・城巽小) (東側一部は城東小/東光中) | |
旧町名のうち、大黒町は縁起を担いだとも大黒屋という茶屋によるともいう。壱丁町は町の長さが一丁あったという。区画整理で両町と周囲の町丁の一部も取り込んだために二つの校区にまたがっている[54]。 | ||||||
下寺町 | しもでらまち | 670-0932 | 344 | 698 | 城東小/東光中 | |
旧町名「下寺町裏」の裏が取れたもの。そのため名前に反して寺院が存在しない。 | ||||||
国府寺町 | こおでらまち | 670-0852 | 97 | 191 |
| |
内町の町大年寄を務めた国府寺家の旧地。 | ||||||
五軒邸1丁目 | ごけんやしき | 670-0854 | 72 | 160 | ||
五軒邸2丁目 | 164 | 312 |
| |||
五軒邸3丁目 | 69 | 154 | ||||
五軒邸4丁目 | 224 | 469 | ||||
町割り前に田畑の中に家が五軒あったことにちなむという。 | ||||||
以下の町は区画整理の範囲外のため、小規模な町が残存している。 | ||||||
同心町 | どうしんまち | 670-0972 | 109 | 200 | 野里小/城乾中 (東側一部は城東小/東光中) | |
姫路城の鬼門に当たる武家地。同心屋敷や伊賀屋敷が置かれたという。 | ||||||
堺町 | さかいまち | 670-0014 | 46 | 84 | 野里小/城乾中 | |
福居町 | ふくいまち | 670-0855 | 55 | 114 | ||
竹田町 | たけだまち | 670-0013 | 30 | 59 | ||
生野町 | いくのまち | 670-0007 | 33 | 63 | ||
八木町 | やぎまち | 670-0006 | 23 | 35 | ||
金屋町 | かなやまち | 670-0005 | 21 | 36 | ||
以下は野里のうち、姫路城外曲輪に含まれる町丁。 | ||||||
橋之町 | はしのまち | 670-0008 | 21 | 40 | ||
福本町 | ふくもとまち | 670-0004 | 20 | 47 | ||
米屋町 | こめやまち | 670-0003 | 17 | 47 | ||
五郎右衛門邸 | ごろうえもんてい | 670-0857 | 99 | 202 | ||
野里の鋳物師棟梁・芥田五郎右衛門に由来する。五郎右衛門邸参照。 |
町名 | 読み[23] | 郵便番号[24] | 世帯数[23] | 人口[23] | 主な施設・備考 | 校区[25] |
---|---|---|---|---|---|---|
駅前町 | えきまえちょう | 670-0927 | 34 | 79 | 白鷺小中(旧・城南小) | |
町割りの際に「宿村」のうち外曲輪内に取り込まれなかった湿地帯が元になっている。1889年(明治22年)に山陽鉄道姫路駅が開業し、また外堀やその城壁が失われたことで内町と一体化する[48]。 | ||||||
西駅前町 | にしえきまえちょう | 670-0913 | 37 | 55 |
| |
豆腐町(南町の旧称・内豆腐町に対して外豆腐町とも)の一部が分離して成立[55]。 | ||||||
豆腐町 | とうふまち(とふまち[56]) | 670-0914 | 0 | 0 |
| |
西駅前町成立後、鉄道用地に残存した町名[56]。 | ||||||
南畝町 | のうねんちょう | 670-0961 | 38 | 73 |
| |
南畝町1丁目 | 62 | 90 | ||||
南畝町2丁目 | 301 | 526 | ||||
播磨国風土記に名前の見える地名。江戸時代は飾磨街道沿いを「南畝町」、それ以外を「南畝村」と称した[58]。 | ||||||
忍町 | しのぶまち | 670-0917 | 341 | 472 | 白鷺小中(旧・城南小) (西側一部は船場小/琴陵中※) | |
忍びの者が置かれたことに由来するという町名[55]。忍町 (姫路市)参照。 | ||||||
久保町 | くぼちょう | 670-0916 | 188 | 325 |
| |
窪地の湿地帯だったが大正時代に埋め立てられ、第二次世界大戦前後は市場街として栄えた[55]。 | ||||||
高尾町 | たかおちょう | 670-0915 | 93 | 197 |
| |
久保町と逆に高台で畑地が多く、のちに多くの工場が進出し、昭和半ばからは住宅・商業地へと転じている[56]。 |
町名 | 読み[23] | 郵便番号[24] | 世帯数[23] | 人口[23] | 備考 | 校区[25] |
---|---|---|---|---|---|---|
橋之町 | はしのまち | 670-0008 | 21 | 40 | 野里小/城乾中 | |
福本町 | ふくもとまち | 670-0004 | 20 | 47 | ||
米屋町 | こめやまち | 670-0003 | 17 | 47 | ||
五郎右衛門邸 | ごろうえもんてい | 670-0857 | 99 | 202 |
現存しない町名[編集]
町名 | 読み | 消滅時期 | 現状 | 出典・備考 |
---|---|---|---|---|
上寺町 | かみでらまち | 江戸時代 | 五軒邸(西部) | 角川p.612「五軒邸」 |
(旧)下寺町 | しもでらまち | 1889年(明治22年) | 坂田町の一部 | 角川p.759、[59] |
下寺町裏 | しもでらまちうら | 1912年(大正元年) | 下寺町 | 角川p.759、[59] |
東本町 | ひがしほんまち | 1963年(昭和38年) | 本町(国道2号以南) | うちまちp.113 |
西本町 | にしほんまち | |||
茶町 | ちゃまち | 1981年(昭和56年) | 古二階町・平野町・元塩町・北条口 | 角川p.945 |
伽屋町 | とぎやまち | 北条口・古二階町 | 角川p.999 | |
和泉町 | いずみちょう | 北条口・古二階町 | 角川p.162 | |
東魚町 | ひがしうおまち | 坂田町・大黒壱丁町 | 角川p.1232 | |
上久長町 | かみきゅうちょうまち | 五軒邸・堺町 | 角川p.423-424 | |
下久長町 | しもきゅうちょうまち | 五軒邸 | 角川p.748 | |
大黒町 | だいこくまち | 大黒壱丁町・総社本町・五軒邸 | 角川p.854
大黒町交差点が現存 | |
壱丁町 | いっちょうまち | 大黒壱丁町 | 角川p.181
壱丁町交差点が現存 | |
東二階町 | ひがしにかいまち | 1984年(昭和59年) | 二階町・呉服町・綿町 | 角川p.1248 |
中二階町 | なかにかいまち | 角川p.1057 | ||
東呉服町 | ひがしごふくまち | 呉服町・紺屋町・二階町 | 角川p.1239 | |
中呉服町 | なかごふくまち | 呉服町 | 角川p.1038 | |
西呉服町 | にしごふくまち | 白銀町・立町・西二階町 | 角川p.1117 | |
上白銀町 | かみしろがねまち | 白銀町・立町・南町 | 角川p.428 | |
下白銀町 | しもしろがねまち | 白銀町・立町・南町 | 角川p.752-753 | |
加納町 | かのうまち | 南町・立町・十二所前町 | 角川p.407 | |
大工町 | だいくまち | 紺屋町・呉服町・亀井町 | 角川p.854
姫路大工町郵便局が現存 | |
直養町 | ちょくようまち | 駅前町・南町 | 角川p.949
大正元年まで「直養」 | |
光源寺前町 | こうげんじまえちょう | 亀井町・東駅前町・南町・白銀町・駅前町 | 角川p.582
昭和9年まで「光源寺前」 | |
東紺屋町 | ひがしこんやまち | 紺屋町 | 角川p.1240 | |
西紺屋町 | にしこんやまち | 紺屋町・呉服町・白銀町・亀井町 | 角川p.1118 | |
恵美酒町 | えびすまち | 魚町・塩町 | 角川p.264 | |
俵町 | たわらまち | 西二階町・福中町 | 角川p.937 | |
西魚町 | にしうおまち | 魚町・塩町・福中町・西二階町・博労町 | 角川p.1106 | |
福中内新町 | ふくなかうちしんまち | 福中町・魚町・坂元町・塩町・博労町 | 角川p.1320 | |
新身町 | あらみまち | 塩町・立町・十二所前町 | 角川p.118 | |
大蔵前町 | おおくらまえちょう | 博労町・塩町・十二所前町・福沢町・忍町・久保町 | 角川p.286
本来は船場地区 (橋本p.16) |
脚注[編集]
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2023年10月7日閲覧。
- ^ 平凡社地名 1999, p. 447.
- ^ 例として一般家庭用クリーンカレンダーの地区の区分け(姫路市環境局美化部リサイクル課、2024年5月2日閲覧)や市内連合自治会72地区 地域資源・活動等(姫路市役所市民局市民参画部市民活動推進課、2024年5月2日閲覧)では区域割りを小学校区によって分けている。ただし白鷺小中学校区は統合前の城南・城巽各校区を元にしている。
- ^ 平凡社地名 1999, p. 444-445.
- ^ 角川地名 1988, p. 1270-1271.
- ^ うちまちものがたり 2006, p. 口絵「はじめに - 白鷺中学校区にある3つの町割り」.
- ^ 橋本 1956, p. 2-10.
- ^ 橋本 1956, p. 19-21.
- ^ 橋本 1956, p. 10-12.
- ^ 橋本 1956, p. 12-19.
- ^ 橋本 1956, p. 21-27.
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- ^ 稲見 1964, p. 2-3.
- ^ 後年に本町68番から分割された地番も存在する(例えば姫路神社は本町83番)が、それらも含めて「本町68番地」と総称される。
- ^ 姫路城跡整備基本計画 2011, p. 20.
- ^ 兵庫県総務部地方課(編) 1962, p. p.692-693間の合併経緯図.
- ^ うちまちものがたり 2006, p. 117.
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- ^ a b 中曲輪(本町68番地)含む
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- ^ この西松屋は呉服店。育児用品店の西松屋は起源を同じくする別企業
- ^ うちまちものがたり 2006, p. 116-117.
- ^ ふるさと城南ものがたり 1989, p. 87-93.
- ^ 他の七不思議は「東に西明寺、北に南条(もしくは「木に竹の門」)、寺に虎屋、西に東光寺、南に北条、町に国府寺」。
- ^ 姫路市史 1919, p. 219.
- ^ ふるさと城南ものがたり 1989, p. 78-82.
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- ^ a b c うちまちものがたり 2006, p. 130-132.
- ^ 神屋町1丁目は区画整理で事実上消失(国道2号敷地としてわずかに残る)。
- ^ 朝つく日豊栄登る山松のこずゑを占めてたづぞ啼くなる
- ^ うちまちものがたり 2006, p. 98-100.
- ^ もとは小野江の梛本、現在の兵庫県立姫路東高校付近にあった。本町 (姫路市)#岐阜町参照。
- ^ a b うちまちものがたり 2006, p. 95-97.
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- ^ 高橋秀吉(大正時代の新聞社・鷺城新聞社社主の子で郷土・民俗資料「高橋秀吉コレクション」を残した郷土史家)の個人資料館。コレクションは没後に兵庫県立歴史博物館へ移管
- ^ ふるさと城南ものがたり 1989, p. 117-121.
- ^ a b “姫路市立城郭研究室ニュース「城踏」No.103 保健所は黒田家菩提寺跡 城郭研究室、保健所に移転中”. 日本城郭研究センター城郭研究室 (2020年12月). 2024年5月1日閲覧。
参考文献[編集]
- 『姫路市全図及其付近』姫路市役所、黒田文明堂、1912年 。
- 播磨史談会 編『姫路市史 : 市制施行三十年記念』姫路市、1919年 。
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- 『復興の歩み』姫路市役所、1960年 。
- 兵庫県総務部地方課(編)『兵庫県市町村合併史 上』兵庫県、1962年 。
- 稲見, 悦治 (1964). “城下町の戦災復興と地域構造の変貌 姫路城下町の場合”. 人文地理 16 (3): 225-246 .
- 『角川日本地名大辞典 28 (兵庫県)』角川書店、1988年。ISBN 4040012801。
- 横山忠雄『ふるさと城南ものがたり』城南地区連合自治会、1989年 。
- 『姫路の都市計画』姫路市都市局計画部都市計画課、1996年3月。
- 都市問題経営研究所 編『お城本町地区第一種市街地再開発事業事業記念誌』お城本町地区市街地再開発組合、2003年。
- 白鷺中学校区地域夢プラン実行委員会『うちまちものがたり 姫路城下町』2006年 。
- 『兵庫県の地名Ⅱ』平凡社〈日本歴史地名大系〉、1999年。ISBN 4582490611。
- 播磨地名研究会『新・姫路の町名』神戸新聞総合出版センター、2007年。ISBN 9784343004444。
- 『姫路の土地区画整理誌 創 2017』姫路市都市局市街地整備部区画整理課、2017年。
- 中元孝迪(監修)『改訂増補 姫路城下古道界隈』姫路市教育委員会文化財課、2023年3月31日。
- “特別史跡姫路城跡 整備基本計画 保存管理と整備・活用の方針” (2011年). 2024年5月4日閲覧。
- “姫路市中心市街地活性化基本計画”. 姫路市. 2024年5月4日閲覧。
外部リンク[編集]
- “文化財見学シリーズ2.『播州姫路の城下町』をたずねて”. 姫路市教育委員会文化財課 (1980年). 2024年5月1日閲覧。