江良房栄
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正14年10月25日(1517年11月8日)[1] |
死没 | 天文24年3月16日(1555年4月7日)[1] |
別名 | 通称:右兵衛尉[1] |
官位 | 丹後守 |
主君 | 陶晴賢 |
氏族 | 江良氏 |
兄弟 | 賢宣、房栄 |
子 | 彦二郎、女(白井晴胤[注釈 1]室) |
江良 房栄(えら ふさひで)は、戦国時代の武将。陶氏の重臣。兄は同じく陶氏の重臣である江良賢宣[2]。
生涯[編集]
永正14年(1517年)10月25日、大内氏の重臣・陶氏の重臣である江良氏に生まれる[1]。名前の「房」の字は晴賢の初名「隆房」の偏諱を与えられたものと推測される[注釈 2]。
陶晴賢に仕え、度々大将として軍を率いて安芸国や備後国に幾度も出陣して活躍した。
天文20年(1551年)8月28日から始まる大寧寺の変では、別動隊として宮川房長と共に軍勢を率いて防府から山口に侵攻した[3]。
天文21年(1552年)2月28日、陶晴賢は房栄を奉行として、厳島の商業振興に関する七ヵ条の掟を出している[4]。
同年4月2日に8ヶ国の守護に任じられた尼子晴久は、頻りに備後国や備中国に兵を進め、大寧寺の変後の大内氏における混乱に乗じて国人衆の懐柔や離反工作を行ったことで、安芸や備後の国人衆が尼子方に寝返ることを憂慮した陶晴賢は、房栄を検使として小早川隆景と湯浅元宗のもとに派遣し、毛利元就に要請して安芸・備後方面の鎮撫を一任した[5]。
天文22年(1553年)4月に備後旗返城の江田隆連が尼子方に寝返ったため、その対処のために備後に出陣した毛利元就は長期戦の構えで旗返城を包囲し、10月には攻め落とした[6]。その後、同年12月に元就は山内隆通や多賀山通続を大内方に服属させて、備後における尼子方の勢力を一掃することに成功したが、毛利氏の勢力拡大を警戒した陶晴賢は毛利氏が長期戦でやっと攻め取った旗返城を召し上げて房栄を城番に任じ、毛利氏への見張り役とした[7][8]。こうした処遇への不満が、翌年に毛利氏が陶氏と断交に踏み切る要因のひとつとなったと考えられている[8]。
天文23年(1554年)5月12日に毛利氏が安芸国における陶氏の拠点への攻撃を開始して、大内・陶氏の勢力から独立した(防芸引分)が[9]、安芸国佐西郡の領主の寄親として安芸国の事情に精通していた房栄は、毛利氏との対決に慎重論を唱えていたために晴賢から毛利氏への内通を疑われ[10]、天文24年(1555年)3月に警固衆(水軍)140艘余りを率いて安芸国佐東郡や厳島を襲撃し[11]、周防国岩国に帰陣した翌日の3月16日に晴賢の依頼を受けた弘中隆包によって岩国の琥珀院で誅殺された[10][12][13]。享年39。
享保2年(1717年)に成立した『陰徳太平記』の巻24では、元就の実力を熟知していた房栄は晴賢に毛利氏との和平を説いたが、元就が房栄から元就に宛てた内通の偽文書を作って陶方に握らせて房栄の裏切りを信じさせたと記されている[14]。
江良房栄の内通説[編集]
従来、弘治3年(1557年)から弘治4年(1558年)頃に毛利隆元が家臣に宛てたとされる書状[15]から、毛利元就が陶方の重臣である房栄を味方にするために内応を打診し、天文24年(1555年)2月に房栄は毛利氏への内応に応じたが、内応の見返りとして内示された300貫の給地では満足せず、さらに加増を要求したことで元就は服属後の房栄の態度に不安を感じ[16]、房栄内応の事実をあえて晴賢に密告して房栄を討たせるように仕向けたとされる[13]。この事について宮本義己は「元就としては、あえて無理をして房栄を味方に加える必要はなかった。したがって晴賢に謀殺させたことは、敵方の帷幄を消し去ったばかりか、晴賢家中の結束にクサビを打ち込む効果があった」と主張している[13]。
しかし、房栄の内通と見返りの加増要求の根拠となっている上記の毛利隆元の書状において、「江良」の加増要求に対して隆元は、「本来は「江良」の命を取るところを助命した上に300貫を与えるという破格の対応を行ったのに更なる加増を要求するとは何事か。毛利氏の重臣である福原氏や桂氏でも300~400貫も与えていないのに「江良」や毛利與三(後の奈古屋元堯)等に500貫とか300貫を与えることは本来おかしいことだ」と述べている[10]。また、同書状で、毛利隆元が命じていない「江良」との取次を赤川元保が行っている一方で、かつての「房栄」とのやり取りでは誰もが取次をしたと述べており、加増を要求した「江良」とは別に「房栄」が登場している[17]。そして、赤川元保が取次を行った江良氏の人物は、房栄の同族で厳島の戦いの際に助命された江良神六であることから、毛利隆元の書状に記された加増を要求した「江良」は房栄の同族である江良神六を指しており、房栄の毛利氏への内通と加増要求は事実ではないと考えられている[18]。
居館[編集]
現在の周南市鹿野にある本生山龍雲寺の境内に江良氏居館跡があり、かつては堀・土塁・櫓などの城郭構造を備えていたとされる[19]。陶弘長が長門国守護代に任じられた時に江良広慶が小守護代(守護代の代理)となった後、江良賢宣まで同居館が使われていた(『長門国守護代記』)。
関連作品[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d 和田秀作 2023, p. 65.
- ^ 鹿野町誌 1970, p. 45.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 167.
- ^ 河合正治 1984, p. 178.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 153–154.
- ^ 山本浩樹 2007, pp. 74–75.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 158.
- ^ a b 山本浩樹 2007, p. 75.
- ^ 山本浩樹 2007, p. 79.
- ^ a b c 和田秀作 2023, p. 55.
- ^ 山本浩樹 2007, p. 83.
- ^ 山本浩樹 2007, p. 84.
- ^ a b c 宮本義己 1997.
- ^ 河合正治 1984, p. 181.
- ^ 『毛利家文書』第709号、年月日不詳、毛利隆元自筆書状。
- ^ 河合正治 1984, p. 182.
- ^ 和田秀作 2023, pp. 55–56.
- ^ 和田秀作 2023, pp. 56–58.
- ^ 鹿野地区の史跡詳細 -周南市の史跡を訪ねて・周南市の歴史あれこれ(周南市ふるさと振興財団)
参考文献[編集]
- 鹿野町誌編纂委員会 編『鹿野町誌』鹿野町、1970年1月。国立国会図書館デジタルコレクション
- 河合正治『安芸 毛利一族』新人物往来社、1984年。
- 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年11月。全国書誌番号:98011058。
- 宮本義己「毛利元就「調略戦」の神髄 人道主義に根ざした合理性の追求」『毛利戦記 歴史群像シリーズ』49号、1997年。
- 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年7月。ISBN 9784642063227。 NCID BA82108738。全国書誌番号:21255499。
- 和田秀作「陶氏の奉書署判者について」山口県文書館『山口県文書館研究紀要50』、2023年3月、51-68頁。